根津神社本殿・幣殿・拝殿
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東京都文京区根津にある根津神社の本殿・幣殿・拝殿です。
根津神社の本殿は桁行3間、梁間3間、1重、入母屋造り、銅瓦葺きです。幣殿は桁行4間、梁間1間、1重、両下造り、銅瓦葺きです。拝殿は桁行正面7間、背面9間、梁間3間、1重、入母屋造り、正面千鳥破風付、向拝3間、軒唐破風付、銅瓦葺きです。内部の長押には、森村宣永画伯奉納の三十六歌仙画が掛かっています。
根津神社の本殿、幣殿、拝殿は宝永3年(1706)に建立され、昭和6年(1931)に国の重要文化財に指定されています。昭和20年、米軍の東京空襲により本殿に焼夷弾が命中して炎上、幣殿、拝殿も延焼しました。昭和25年(1950)から12年を費やして大修理して昔と変わらない荘厳な姿を見せています。
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根津神社

東京都文京区根津にある根津神社です。
根津神社は、1900年ほど前に日本武尊が千駄木に創祀したといわれている古社で、「根津権現」とも呼ばれていました。東京十社に入っており、明治時代には准勅際社・府社に列格していました。本殿、幣殿、拝殿、唐門、楼門、西門、透塀が国の重要文化財に指定されています。
文明年間(1469-1487)に太田道灌により社殿が造営されました。現在の根津神社の地は、江戸時代には5代将軍綱吉の兄である甲府中納言・松平綱重の山手屋敷(別邸)で、6代将軍綱豊(家宣)が生まれたところでした。
宝永2年(1705)、将軍綱吉は養嗣子にした家宣のための産土神として根津神社に屋敷地を献納しました。翌年、千駄木にあった根津神社をこの地に移し、社領500石を与え、拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(相の間)からなる権現造りのり立派な社殿を造営しました。
拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいます。唐門前方の楼門を含め、権現造り神社の建築様式の本来の形を踏襲しています。境内はツツジの名所として知られ、森鴎外や夏目漱石が近辺に住んでいたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されています。
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護国寺

東京都文京区大塚にある護国寺です。
神齢山護国寺は真言宗豊山派大本山です。天和元年(1681)、5代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招lいて創建した祈願寺です。桂昌院念持仏の如意輪観世音菩薩像を本尊としています。
元禄7年(1694)、綱吉と桂昌院ともども護国寺に参詣し、寺領は300石から加増され600石となりました。その翌年、将軍の信頼が厚い快意僧正が第3世になり、元禄10年(1697)には現在の本堂である観音堂が造営されました。
観音堂は元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは江戸隋一といわれました。以来、護国寺界隈は護国寺の隆盛と共に賑わい、寺領も1200石と加増され、境内には多くの建造物が甍を併べた大殿宇となりました。
常陸筑波山の別院知足院の隆光僧正は綱吉から信頼を得て、神田橋外に巨刹を興し護持院と改称し、将軍家祈願の任に当っていました。寺領1500石で、新義真言宗で最も格式の高いお寺でした。享保2年(1717)、護持院は火災に遭い、上野寛永寺と並び称せられた巨刹も堂塔一宇残らず焼失したのでした。
その後、幕命により護持院を護国寺に合伴し、観音堂の方を護国寺に、本彷の方を護持院とし、護持院の住職が護国寺住職を兼ねることとなりました。以後、両寺領併せて2700石の寺領となり、幕府祈願の任を勤め、江戸時代の名所として人々に親しまれてきました。
明治時代初頭に出された神仏分離令により、護持院は廃寺となりましたが、護国寺は残りました。明治16年(1883)、大正15年(1926)に火災があり、堂宇の多くを失いましたが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝え、国の重要文化財に指定されています。
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浅草神社

東京都台東区浅草にある浅草神社です。
浅草神社は浅草寺本堂と二天門の間にあります。浅草寺の創建に関わった土師真中命(はじのまつちのみこと)と檜前浜成命(ひのくまのはなまりのみこと)、檜前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)兄弟の3命が祀られているので、三社権現と称していました。
のちに東照権現(家康)も祀られましたが、明治元年(1866)に三社明神と改称、さらに、明治の神仏分離令により明治6年(1872)には現在の浅草神社と改称され浅草寺と切り離されました。
現存の社殿は徳川家光の寄進で慶安2年(1649)に完成したもので、本殿と拝殿の間に幣殿(石の間)を設けた「権現造り」と呼ばれる構造で、昭和36年(1961)に拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定されました。
「三社祭」は浅草神社の例大祭で、神社神興三体の宮出し、宮入りと各町渡御、四十四カ町町神興の連合渡御などが行われます。江戸三大祭の一つで、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれる江戸っ子の心意気を示して、神と人が一体となって盛り上がります。
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浅草寺二天門

東京都台東区浅草の浅草寺にある二天門です。
二天門は本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建っています。慶安2年(1649)頃の建立といわれています。元和4年(1618)に浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門」として建てられました。東照宮は寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の火災により諸堂とともに焼失し、その後江戸城紅葉山に移されました。
二天門は豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神をまつり、俗に「矢大神門(やだいじんもん)」といわれました。明治時代の神仏分離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった増長天・持国天の二天を奉安して「二天門」と改称しています。
二天門は切妻造り、本瓦葺きの木造朱塗りの八脚門で、「二天門」の扁額は最後の太政大臣、三条実美の筆です。第2次世界大戦にも焼け残った二天門は昭和年(1946)に国の重要文化財に指定されています。
二天門の前には手水鉢が置かれています。手水鉢とは、参拝の前に身を清めるための水を蓄える鉢です。手水鉢の側面には、安永6年(1777)に浅草寺の消防組織の「臨時連中」によって寄進された事が刻まれています。
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浅草寺

東京都台東区浅草にある浅草寺です。
金龍山浅草寺は昔から「浅草の観音さま」として親しまれ、老若男女、外国人観光客が入り交じり、お参りの人々で賑わいをみせています。都内では最古の寺院として知られています。坂東33カ所観音霊場の第13礼札所としても知られています。
雷門からの境内には宝蔵門、本堂のほかに本坊の伝法院、五重塔、二天門(国重文)、淡島堂、滝廉太郎作曲の「鳩ポッポ」歌碑等があり、訪れる人々を楽しませてくれます。
浅草といえば浅草寺。参道の入り口にある雷門は浅草の代名詞であり、下町のシンボル雷門から宝蔵門までの浅草寺への参道は、一般には仲見世通りとして多くの人々に親しまれています。
約300mの道沿いには江戸時代から商いを続ける老舗を含め、雷おこし、人形焼、江戸玩具、べっこう細工等90余の店が軒を連ねています。
大化元年(645)僧勝海が現在地に堂を建て、天慶5年(942)安房国守、平公雅により再建されました。下総から鎌倉に向かう源頼朝が参詣し寺領を寄進しています。戦国時代には北条氏綱によって再建されています。
天正18年(1590)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領500石を与えました。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631)、同19年(1642)に焼失、3代将軍徳川家光により、慶安元年(1648)に五重塔、同2年(1649)に本堂が再建されました。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めました。
年間約3千万人の人々が訪れる浅草寺は、ほおずき市など風情のあるイベントが多い所です。3月と10月の18日にある金龍の舞、毎年12月17-19日の羽子板市などで賑わいます。
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上野アメ横

東京都台東区上野にある上野アメ横です。
アメ横はアメヤ横丁の通称です。JR東日本の御徒町駅から上野駅間の山手線の高架橋西側と高架下に沿った商店街です。およそ400mの中に400軒以上の店がひしめき合っています。
名前の由来は諸説あるようです。アメリカ軍の払い下げ物資を安く売りさばく店が多く集まったという説、小遣い稼ぎに物資を持ち込んだアメリカ兵により同国の製品が大量に出回ったという説、飴を販売する店が軒を連ねたという説などです。
魚介類や乾物、衣類、雑貨、宝飾品などの店が業種ごとに集中しています。特に年末には威勢のいい呼び込みのダミ声の中、正月用の生鮮食品などを買い求める人たちでごった返します。
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常憲院霊廟勅額門

東京都台東区上野桜木にある常憲院霊廟勅額門です。
常憲院霊廟勅額門は徳川5代将軍綱吉の霊廟の勅額門で、上野の寛永寺にあります。宝永6年(1709)に建立されたもので、水盤舎とともに、昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。
勅使門は、切妻造り、前後軒唐破風付、銅瓦葺きの四脚門です。歴代将軍の霊廟の中でも、もっとも整ったものの一つです。この奥に徳川家定と天璋院も葬られています。
徳川将軍家霊廟は、8代吉宗公以降は倹約のためもあり、大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔が建立された程度でした。
初代家康は日光東照宮、2代秀忠は台徳院霊廟(増上寺)、3代家光は大猷院霊廟(日光・輪王寺)、4代家綱は厳有院霊廟(寛永寺)、6代家宣は文昭院霊廟(増上寺)、7代家継は有章院霊廟(増上寺)にあります。
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寛永寺

東京都台東区上野桜木にある寛永寺です。
寛永寺の旧本坊表門は慶応4年(1868)5月の上野戦争の兵火を唯一免れた建物です。寛永寺の本坊は、現在の東京国立博物館の地に建立されていました。現在はその表門だけが往時の姿を留めています。門には官軍の攻撃による弾痕が数多く残っています。国の重要文化財に指定されています。
江戸時代、現在の上野公園に寛永寺の堂塔伽藍が整然と配置されていました。現在の噴水池周辺に、本尊薬師如来を泰安する根本中堂があり、その後方に本坊があり「東叡山の山主である」輪王子宮法親王が居住していたそうです。
開山堂は開山した天海僧正(慈眼大師)と2代目慈恵大師を祀っています。天海僧正は天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営し、幕府の天台宗制覇を実現する意図があったようです。
寛永寺全体の表門というべき黒門は荒川区南千住の円通寺に移築され現存しています。現在、上野公園にあるのは、丸の内にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門が移築されたものです。
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国立科学博物館上野本館

東京都台東区上野公園にある国立科学博物館上野本館です。
国立科学博物館上野本館(現日本館)は旧東京博物館上野新館だった建物で、平成20年(2008)に国の重要文化財に指定されました。国立科学博物館は上野恩賜公園の中にあり、自然史・理工学・科学技術などに関する資料の収集・展示や研究などを行っています。
前身は明治10年(1877)に設立された文部省の教育博物館でした。大正10年(1921)に東京博物館と改称し、大正12年(1923)の関東大震災で施設と資料のすべてを焼失してしまいました。現在の本館(現日本館)は昭和6年(1931)に上野新館として竣工されたものです。
その翌年には東京科学博物館と改称され、東京市の施設となりました。昭和20年(1945)には建物が軍に徴用され、終戦まで高射第1師団の司令部となっていました。昭和24年(1949)に国に移管され、現在の国立科学博物館となりました。
太陽系と宇宙、生命の誕生から人類への進化、動植物の多様な世界など、自然科学に関する様々な展示を行っています。新館ではテーマを映像や照明を駆使して展示しています。
1階は生命を誕生させた海がテーマ。2階は身近な科学。遊び道具のような実験道具で、楽しみながら科学に親しめます。3階の発見の森は雑木林のジオラマを散歩しながら自然の不思議を見つけだす体験型の展示です。地下1階は大型恐竜の迫力の骨格見本です。
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国立国会図書館支部上野図書館

国立国会図書館支部上野図書館は東京都台東区上野公園にあります。
国立国会図書館支部上野図書館は明治5年(1872)湯島の聖堂内に開館した書籍館の伝統を受け継いでいます。明治30年に旧帝国図書館となりました。この建物は明治39年(1906)に建築されました。ほぼ創建時のままでネオ・ルネッサンス調の風格ある建物で明治を現代に残しています。
旧帝国図書館は、東京都選定歴史的建造物に指定されています。
昭和36年(1961)、永田町の国会議事堂隣接地に国立国会図書館の中央館(東京本館)が新築開館されると、上野図書館の蔵書のほとんど全てが中央館へと移され、国立国会図書館の東京本館へと統合され、国際子ども図書館に移行しています。
国際子ども図書館は平成14年(2002)5月5日にオープンしました。国内外の児童書を収集公開しています。国際子ども図書館には東京本館から18歳未満を主たる読者の対象とする資料が移管され、上野図書館で旧来所蔵してきたコレクションは東京本館に戻されています。
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旧東京音楽学校奏楽堂

東京都台東区上野公園にある旧東京音楽学校奏楽堂です。
旧東京音楽学校奏楽堂は上野公園の一角、東京藝術大学前にあります。明治23年(1890)に建てられた日本最古の木造の洋式音楽ホールで、昭和63年(1988)に国の重要文化財に指定されました。
東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の施設だった奏楽堂は、木造総二階建、玄関ポーチ付、桟瓦葺きで、建築面積は785.4平方mで、中央家と翼家からなっていました。奏楽堂とは、本館中央家2階にあるオーディトリウム(演奏会場)のことを指していました。
現在の奏楽堂は建物そのものの名称となっています。昭和47年(1972)、老朽化のため大学構内から愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されることになりましたが、日本建築学会、音楽家グループ、市民らの反対により撤回され、昭和58年(1983)に台東区に譲渡されました。
昭和59年(1984)に解体され、翼家の部分の一部を省略して芸術大学敷地内から昭和62年(1987)にこの地に移築されました。中にはパイプオルガンのある音楽ホールと資料室があり、今でも演奏会が開催されています。
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