回向院

東京都墨田区両国にある回向院です。
回向院は赤穂浪士が討ち入り後、追っ手に備えようと入ろうとして拒否されたところです。また、このお寺では旧国技館ができるまでは公共社会事業の資金集めのための寄付相撲、いわゆる勧進相撲興行が行われていたところでもあります。
この回向院で大相撲が行われていたのです。境内には力塚と刻まれた碑や、相撲石碑が残されています。
回向院は明暦3年(1657)の大火の犠牲者を弔うために建てられた浄土宗のお寺です。
この大火の焼死者を集めて築いた万人塚が始まりで、海難溺死者、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために開かれました。その後の安政大地震、関東大震災、海難、水死、焼死、牢病死で亡くなった全ての無縁仏を祀っています。
力塚は昭和11年(1936)に落成されました。巨大な石に「力塚」と書かれた石碑で、揮毫は徳川家達です。相撲関係者の霊を祀っています。 著名埋葬者としては、猿若勘三郎(江戸歌舞伎)、加藤千蔭(大岡越前守配下の与力 賀茂真淵門下の国学者)、奥村市蔵(明治理髪の元祖)などがあります。
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吉良邸跡

東京都墨田区両国にある吉良邸跡です。
吉良邸跡は吉良上野介義央の上屋敷跡です。赤穂浪士が主君の浅野内匠頭の仇討ちを果たした場所で、赤穂浪士が吉良の首を洗ったという首洗いの井戸があります。
現在は「本所松坂町公園」になっています。昔の吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2、3丁目)のうち、約8400平方mの大屋敷でしたが、昭和初期、周辺は住宅化が進みました。旧吉良屋敷跡を保存するため、地元有志が土地を購入、周囲をすなまこべい長屋門石壁造りに復元保存し、東京市に寄贈し本所松坂町公園ができました。
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ニコライ堂

東京都千代田区神田駿河台にあるニコライ堂です。
御茶ノ水駅の近くの、駿河台の丘の上にニコライ堂があります。この聖堂は、正式には日本ハリストス正教会東京復活大聖堂といい、東方正教会とも呼ばれるキリスト教の教会です。高さ35mの玉葱型ドームは日本ではないような異国情緒を醸し出しています。
ニコライ堂は箱館のロシア領事館付きの司祭としてやってきたニコライが、明治24年(1891)に建てたビザンチン様式の教会です。ロシア人建築家シチュールポフの設計図面を基に、 コンドルが実施設計・監督を行いました。 駿河台は東京市中を見下ろす高台で、大聖堂は東京の大部分の場所から眺められ、東京のランドマークとなりました。
大正12年(1923)の関東大震災によりドームが崩壊しました。昭和4年(1929)に岡田信一郎の設計によって修復され、今にいたっています。震災前のものに比べると、建物の構造を強化するためにドーム部分に変更が加えられ、鐘楼の屋根は尖塔だったものがドーム屋根になりました。国の重要文化財に指定されています。
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靖国神社

東京都千代田区九段北にある靖国神社です。
明治2年(1869)明治維新政府が幕末から戊辰戦争にかけての犠牲者や戦没者を慰霊するために招魂社(しょうこんしゃ)を九段坂上の火除地3番丁原に設け設けました。これが靖国神社のが始まりです。
明治12年(1879)靖国神社と改称されました。神社の場所は、幕末時代の歩兵屯所のあった所で、広大な敷地の中には馬場もあったそうです。
「靖国神社」は、「国を安らかでおだやかな平安にして、いつまでも平和な国につくりあげよう」という気持ちを込め、明治天皇によって命名されたということです。
靖国神社の御祭神は、嘉永6年(1853)以降(戊辰の役、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変、第二次世界大戦)の戦死者・殉職者、246万6500余柱といわれています。
靖国神社は、明治以来国営化されていましたが、第2次世界大戦での敗戦以降、新たな宗教法人として全国遺族、崇敬者の手によってお祀りされるようになりました。
参道のほぼ中央にある大村益次郎の銅像は明治26年(1893)の設立です。日本で最初の西洋式銅像でした。上野の山にたてこもる彰義隊討伐に際して江戸城から指揮を執る勇姿と伝えられています。
大村益次郎は緒方洪庵の適塾で蘭学を学びます。安政3年(1853)に宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)に招聘され、宗城の参勤にしたがって上京し、麹町に鳩居堂という学塾をひらきました。
その後桂小五郎、周布政之助らの知遇を得、長州藩へ帰り出仕します。四境戦争の折には石州口の参謀を務め、約700人の兵で7500人の幕府軍を破ります。戊辰戦争時は軍防事務局判事として江戸の治安回復を命じられました。
明治新政府では兵部大輔を務め、新政府軍の軍政・軍令を統括し、天皇直属の中央常備軍編成に尽力しました。明治2年(1869)に、兵制改革に反対する長府藩士神代直人らに京都で襲われ重傷、敗血症で46歳の生涯を閉じました。
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北の丸公園

東京都千代田区北の丸公園にある北の丸公園です。
竹橋と一番町を結ぶ代官通りと、千鳥ヶ淵・牛ヶ渕・清水濠に囲まれたところが旧北の丸です。竹橋門内に住んだ秀頼の妻で2代将軍の娘千姫は「北の丸様」と呼ばれたそうです。
江戸時代御三卿の屋敷などがあったこの地は明治になって近衛兵の兵営が置かれたそうです。昭和30年代後半に旧近衛連隊等の多くの建物を撒去し、森林公園として造成されました。
昭和44年(1969)に公園として開放され、多くの文化施設が集まっています。日本武道館、科学技術館、国立公文書館、東京国立近代美術館、東京国立近代美術館工芸館などです。
日本武道館は東京オリンピックの柔道の会場として建設されました。現在は武道の試合の他、コンサートや各種イベントが開催されています。
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清水門

東京都千代田区北の丸公園にある清水門です。
清水門は北の丸の東門です。寛永元年(1624)に助役大名になっていた浅野長晟により建てられた江戸城北丸にある枡形の城門です。桜田門、田安門とともに昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定されています。
清水門は、昔この辺りに清水が湧き出ていたから付けられたようです。また、他説ではこの辺りに清水寺があったというものもあります。宝暦9年(1759)に9代将軍家重の第2子・重好が日本武道館付近に清水家を興しています。田安門から南北に分けると西側一帯が田安家、東側一帯を清水家が所有していたそうです。
内堀通りから高麗門に入る道は、土橋となっています。高麗門に向かって右が「牛ヶ淵」、左が「清水濠」です。牛ケ淵と清水濠の水位が違うため、土橋にダムの役割を持たせているのです。
雁木坂と呼ばれる石段は敵の侵入を遅らせるため、段差がきつく不ぞろいでとても登り降りしにくくなっています。文久元年(1861)の本丸炎上の時には、将軍家茂と夫人和子(静寛院宮)は一時ここに移っていたそうです。
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田安門

東京都千代田区北の丸公園にある田安門です。
田安門は北の丸地区北側の靖国通りに面した位置にあり、北の丸公園への出入り口、武道館へ入るところにあります。江戸城でももっとも桜の美しい場所です。
田安門は、北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。寛永13年(1636)に建てられています。江戸城遺構のうち、宮内庁所管以外のもので、昭和36年(1961)に国の重要文化財に指定されています。
昔、この付近に田安大明神が祀られていたので田安という名前が付けられたようです。江戸城が造られてからは、北丸といわれ、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所になりました。千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にあったそうです。
享保15年(1730)、8代将軍吉宗の第2子・宗武は、ここに一家を創立して田安家を興しました。また宗武の子・定信はこの地で生まれました。久松松平家の白河藩主・松平定邦の養子になり松平定信(白河楽翁)となり、寛政の改革を行いました。
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旧岩崎家住宅

東京都台東区池之端にある旧岩崎家住宅です。
旧岩崎家住宅は旧岩崎邸庭園として都立庭園の中にあります。三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したものです。園内にある洋館・撞球室・和館大広間・袖塀など屋敷全体が国の重要文化財に指定されています。
旧岩崎邸の敷地は、現在の旧岩崎邸庭園よりもかなり広く湯島合同庁舎、湯島四郵便局や切通公園一帯を含んでいました。江戸時代には越後高田藩榊原家の中屋敷でした。明治時代初期、旧舞鶴藩主・牧野弼成の屋敷だったものを明治11年(1878)に岩崎弥太郎が買い取ったものです。
現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)などは、岩崎財閥3代・岩崎久弥によって明治29年(1896)に建てられました。大正12年(1923)の関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放されたそうです。
洋館は、鹿鳴館やニコライ堂などを代表作にもつ英国人のジョサイア・コンドル博士が設計を手がけました。日本で初めて設計事務所を開いた人で、門下生には東京駅を設計した辰野金吾などがいます。完成当初は1万5千坪の敷地に20棟以上の建物があったそうです。
木造2階建・地下室付きの建物で、17世紀に英国で流行したジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラムのモチーフ、米国・ペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージなどを採り入れています。岩崎家の集まりや大切なお客様を招いて行うパーティーなどに使われたそうです。
洋館と結合されるかたちで「和館」が建っています。岩崎家の人々の居住スペースとして使用されていました。明治時代に数多くの住宅を手がけた、大河喜十郎が施工を手がけたと伝えられています。完成当時は建坪550坪で洋館よりも大きな建物でしが、現在は一部しか残されていません。
昭和20年(1945)終戦の際、GHQにより接収され、昭和22年(1947)財産税として物納、国有財産化されました。昭和36年(1961)洋館・撞球室が国の重要文化財に指定され、和館大広間・袖塀が追加指定、平成11年(1999)屋敷全体と実測図が追加指定されました。平成13年(2001)東京都に移管され、都立旧岩崎邸庭園として公開されました。
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神田明神

東京都千代田区外神田にある神田明神です。
神田明神は天平2年(730)に創建された由緒ある神社です。元和2年(1616)には江戸城の鬼門の守護神となり、江戸総鎮守として江戸の庶民に親しまれてきました。
神田明神は聖橋を渡ったところにあります。社殿の近くに銭形平次と刻まれた碑があります。野村胡堂の時代小説「銭形平次捕物控」の主人公、明神下の平次こと目明し銭形親分で有名になりました。
一の宮では大己貴命(大国主命・だいこくさま)、ニの宮では少彦名命(恵比須・えびすさま)、三の宮では平将門命を祀っています。 社殿は鮮やかな朱塗りで、祭神は、家庭円満、縁結び、商売繁盛、事業繁栄の守護神だそうです。
江戸時代、新橋と浜松町を結ぶ江戸城の南は、浅い海の底にだったそうです。城の北東に隆起していた神田山(のちの駿河台)の南は低地になっていて古くから田が広がり農家や町屋が点在していたようです。
神田山は家康の死後、晩年を暮らした駿府城を守っていた駿河衆が移り住んだため駿河台と呼ばれるようになったそうです。
神田祭の山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、一名「天下祭」ともいわれ、江戸三大祭りの一つに数えられています。また「神田囃子」は無形文化財に指定されています。
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旧磯野家住宅

東京都文京区小石川にある旧磯野家住宅です。
旧磯野家住宅は、実業家の磯野敬が大正元年(1913)に建てた住宅です。車寄を備えた平屋建の書院棟、3階建の応接棟、平屋建の旧台所棟などから構成されています。屋根は銅板葺で、外壁にも銅板を張っています。
表門は大正2年(1913)に建てられました。尾州檜の太い丸太材を柱に用いた四脚門です。主屋と表門は平成17年(2005)に国の重要文化財に指定されています。
旧磯野家住宅は、東京に残る数少ない明治末期から大正初頭にかけての邸宅建築の一つです。現在は旧古河庭園内にある大谷美術館(旧古河邸本館)が管理していて、春と秋に見学会が開催されます。
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旧東京医学校本館

東京都文京区白山の小石川植物園内にある旧東京医学校本館です。
旧東京医学校本館は昭和44年(1969)にこの小石川植物園内に移築されました。翌年の昭和45年(1970)には国の重要文化財に指定されています。
旧東京医学校本館は明治9年(1875)に完成しました。建築面積430.6平方mで、木造2階建で、明治政府が諸官庁の建築工事を管掌させた工部省営繕局の設計です。桟瓦葺きで、正面玄関や半八角形の車寄せがあり、中央部には塔屋が付いています。
明治10年(1876)、東京医学校と東京開成学校を毋胎とした東京大学が発足してからは、帝国大学医科大学本館となりました。その後、史料編纂掛、大学営繕課、施設部庁舎などに使用されました。大学発祥の由緒を持つ建物として、学校教育史上非常に価値があります。
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小石川植物園

東京都文京区白山にある小石川植物園です。
小石川植物園は東京大学理学部附属植物園小石川本園といいます。前身は徳川幕府直轄の小石川御薬園です。5代将軍綱吉がまだ館林藩主だった頃、白山御殿と呼ばれる下屋敷があったところです。
貞享元年(1684)、この地に幕府の薬草園の小石川御薬園が造られました。8代将軍吉宗の時にほぼ現在と同じ規模に拡大され、享保7年(1722)には山本周五郎の小説赤ひげ診療譚の舞台となっ小石川療養所が併設されました
明治維新後は薬園は東京府、その後文部省の管轄となり、明治4年(1871)に小石川植物園となりました。明治10年(1877)、東京帝国大学の所管となりました。16万1千平方mの園内には、約4千種の植物が植えられています。敷地内には旧東京医学校本館が移築保存されています。
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赤門(旧加賀屋敷御守殿門)

東京都文京区本郷にある赤門(旧加賀屋敷御守殿門)です。
日本の最高学府は東京大学です。そのシンボルが朱色に塗られたこの赤門です。表門の黒門に対して赤門と呼ばれたのです。昔ここは加賀藩前田家上屋敷でした。屋根の上の棟瓦には葵の紋、軒の丸瓦には前田家の家紋梅鉢があります。
文政11年(1828)11代将軍家斉の娘溶姫が前田家13代斉泰に嫁入りしました。その際の迎え入れのための門だそうです。この赤門(旧加賀屋敷御守殿門)は国の重要文化財に指定されています。
江戸時代において、三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の子女、あるいはその居住する奥御殿を御守殿(ごしゅでん)あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を丹塗(にぬ)りにしたところから俗に赤門と呼んだそうです。
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湯島天満宮

東京都文京区湯島にある湯島天満宮です。
湯島天満宮は江戸時代より梅の名所として有名です。雄略天皇2年(458)の創建と伝えられ、正平10年(1355)、湯島の郷民が菅原道真公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請し、あわせて奉祀しました。
太田道灌が再興し、天正19年(1591)には徳川家康から朱印地5石を与えられています。菅原道真を祭るこの神社は、学問の神様として別名湯島天神としても広く知られています。
江戸時代には谷中感王寺(天王寺)、目黒不動と並び「江戸の三富」と呼ばれ、幕府公認の富くじ(富突き)を発行しました。毎月16日に行われた富籤興業は、一獲千金を夢見る人々でごった返したそうです。
江戸時代、毎月10日と25日に縁日が開かれたそうです。境内には茶店や休処が常設され、楊弓場では宮芝居や大相撲本場所が行われたこともあったそうです。
明治18年(1885)に改築された天神社殿も老朽化が進み、平成7年(1995)には後世に残る総尾州檜の権現造りで立派な新社殿が造営されました。
泉鏡花作の新派の名作「婦系図」の舞台としても有名です。、新派の記念碑や鏡花の筆塚もあります。湯島を舞台にした悲恋の長篇小説で明治40年(1907)に「やまと新聞」に連載され、翌年春陽堂から出版されました。
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東京都文京区湯島にある湯島聖堂です。
元禄3年(1690)5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟です。もともとは寛永9年(1632)徳川幕府の政治顧問であった林羅山が上野忍が岡(現在の上野公園)に建てた孔子廟「先聖殿」を移築したものです。
綱吉は先聖殿を「大成殿」と改称し孔子像と四賢像を安置し、またそれに付属する建物をひっくるめて「聖堂」と総称しました。建物全体は朱塗りにして青緑に彩色したと記録に残されています。聖堂の西側に御成殿や学寮が設けられました。
老中松平定信は寛政の改革を通じて、聖堂は林大学頭家の施設であることから脱し、幕府の教育機関としての性格を強くさせていきました。
そして、寛政9年(1797)聖堂及び林家の学塾は幕府に収公されて、以後「昌平坂学問所」と称し幕臣教育を受け持つことが布告されたのです。
建物は4回もの江戸の大火、関東大震災などで焼失、再建を繰り返し、現在の建物は昭和10年(1935)に再建したものです。宝永10年(1704)に建てられた入徳門だけがそのまま残っています。
湯島聖堂の「偕の木」は有名ですが「すだじい(ぶな科)」の大木があります。椿山荘にもこの「すだじい」がありました。
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小石川後楽園

東京都文京区後楽にある小石川後楽園です。
徳川御三家のひとつ、水戸藩初代藩主徳川頼房が江戸上屋敷の庭園として造園を指示、2代目藩主光圀(水戸黄門)が完成した江戸初期の代表作的庭園です。
光圀は造成に当たって、明から亡命した朱舜水の意見を広く取り入れて造園を行い、豪壮にして繊細な趣のある大名庭園を完成させました。
中国の名所、西湖の堤を模した切石積の石堤、西湖堤や中国伝来の様式である円月橋が有名です。庭の様式は池泉回遊式で、海、河、山、野の4つの風景が楽しめるようになっています。
後楽園の由来は、宋の范文正の「岳陽楼記」の中の一節にある「士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から取ったそうです。一般の憂いを先取りし、庶民を楽しませ、自らはその後に楽しむという意味を込めたようです。
岡山にある後楽園の由来は、庭園の場所が岡山城本丸の北の対岸で、城が背後にあるため「御後園」と呼ばれたのが変化したものだそうです。
小石川後楽園は、かつて「後楽園」と呼ばれていました。大正11年(1922)現在の3大名園の1つ岡山の後楽園が名勝に指定され「後楽園」としました。翌年、東京の後楽園も史跡及び名勝に指定されました。そのため、岡山と区別するために「小石川後楽園」となったそうです。
昭和27年(1952)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されています。
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東京ドーム

東京都文京区後楽にある東京ドームです。
東京ドームは昭和63年(1988)3月竣工されました。面積は115200平方mで日本で初めて造られた全天候型多目的ドーム施設です。内外の圧力差によって自立する、空気膜構造になっています。
読売ジャイアンツのホームグラウンドですが、コンサートや様々なイベント会場として親しまれています。ドームシティは地上43階建ての超高層ホテル東京ドームホテル、天然温泉施設LaQua、東京ドームアトラクションズなどアミューズメントスポットして人気があります。
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