一乗寺鐘楼

兵庫県加西市坂本町に一乗寺があります。
一乗寺の鐘楼は金堂の横に、寛永6年(1629)に建てられています。間口3間、奥行2間、入母屋造り、本瓦葺きです。袴腰があり、上層部には高欄が廻っています。昭和43年(1968)に兵庫県の文化財に指定されています。
組物は出三ツ斗、大斗肘木(だいとひじき)を用い、江戸時代初期頃の特徴を示しています。破風板(はふいた)、懸魚(けぎょ)などは補修されていますが、全体の姿体は比較的整っていて、木造建築物としての優雅さを誇っています。
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一乗寺本堂

兵庫県加西市坂本町に一乗寺があります。
一乗寺の金堂は本堂にあたり、大悲閣とも呼ばれます。三重塔の直上の階段を上ったところに建てられています。間口9間、奥行8間、入母屋造り、本瓦葺き、斜面にせり出した懸崖造りです。内部は広い外陣と、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣で構成されています。昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定されました。
現在の金堂(本堂)は法華山諸堂記に、寛永5年(11628)に姫路藩主であった本多忠政が再建したと記されています。内陣には三間の大厨子を置き、中央の間に秘仏の本尊聖観音立像(国指定重要文化財)、左右の間には不動明王と毘沙門天像を安置し、厨子外の左右には二十八部衆と風神・雷神像を安置しています。
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一乗寺三重塔

兵庫県加西市坂本町に一乗寺があります。
常行堂の奥の石段を上ると左手に国宝の三重塔があります。日本国内屈指の古塔で、平安時代末期の承安元年(1171)に建立されています。昭和16年(1941)から2年間かけて行われた解体修理の時、相輪の根元に据えられている伏鉢(ふくはち)から承安元年の銘が発見され、年代が特定できる最古の塔であることが判明しました。
三重塔は高さ約21.8m、三間、本瓦葺きの三重塔です。塔頂には唐草文様の透かし彫りが施された水煙が印象的な相輪が天を仰いでいます。この相輪の高さは約7mもあり、三重塔の高さの3分の1を占めています。三重塔の屋根は、上に行くほど小さくなるように造られおり、安定感のある優美な塔にみせています。三層の幅は、初層の半分近くまで減少しているそうです。日本でも10指にはいる古塔で、昭和27年(1952)に国宝に指定されました。
塔の中央間には板戸が入り、その脇間には格子間に隙間の無い盲連子(めくられんじ)がはめられています。軒は二軒(ふたのき)の繁垂木(しげだるき)で、組物は三手先(みてさき)です。中備(なかぞえ)には、三間ともに蟇股(かえるまた)が入れられています。蟇股は平泉の中尊寺金色堂と同様の平安時末期建築の特徴がうかがえます。
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一乗寺

兵庫県加西市坂本町に一乗寺があります。
法華山一乗寺は姫路の書寫山円教寺とともに、播磨屈指の西国観音霊場として知られる天台宗のお寺です。播磨天台六山(他に円教寺、八葉寺、神積寺、随願寺、普光寺)の一画も担い、西国33所観音霊場の第26番札所としても知られています。
寺伝によると、大化5年(649)孝徳天皇の病気を加持祈祷し治癒させた法道仙人が、翌年の白稚元年(650)に一宇を創建し、天皇が行幸し法華山一乗寺の山号を賜ったとされています。
聖武、孝謙、仁明天皇の勅願寺となり、永延元年(987)、一乗寺に立ち寄った花山法王は「春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる法の華山」と詠まれています。正中2年(1325)、後醍醐天皇の勅により大講堂が建立され、元弘3年(1333)には荘園が寄せられています。
大永3年(1523)、山名氏の兵火で堂宇は焼失し、地蔵院永厳が赤松義祐の帰依を得て再建しました。元和3年(1617)に本堂、鐘楼などを焼失しましたが、姫路藩主本多忠政が再建しています。3代将軍徳川家光からは朱印112石を賜っています。
奈良、平安時代に最も隆盛したお寺ですので数多くの価値のある文化財があります。境内の三重塔や絹本著色聖徳太子及び天台高僧像は国宝に指定され、金堂、護法堂、妙見堂、弁天堂、石造五輪塔、多くの仏像などが国の重要文化財に指定されています。
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鶴林寺観音堂

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
鶴林寺の観音堂は宝永2年(1705)に姫路藩主榊原政邦の寄進により再興された建物です。間口3間、奥行3間、1間の向拝がある入母屋造り、単層、本瓦葺きです。昔は白鳳時代の聖観音像が安置されていました。明治維新後の神仏分離の後は浜の宮神社の本地仏で秘仏の聖観音を安置しています。
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鶴林寺仁王門

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
鶴林寺の仁王門は大門とも呼ばれる正門で、寛文12年(1672)に建立されています。3間1戸の楼門形式で、入母屋造り、本瓦葺きです。屋根と縁張り出しが美しく、兵庫県の有形文化財に指定されています。
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鶴林寺三重塔

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
鶴林寺の三重塔は高さ18m、本瓦葺きの3間三重塔です。塔の建立年ははっきりしませんが建築様式から室町時代のものと推測されています。その後、江戸時代の文政年間(1818-1830)に大修理が施され、初重の大部分はこの時に新しく造り直されたようです。塔は、基壇の上に建ち、高欄のない縁を廻らしています。中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも間斗束があります。内部は四天柱内に須弥壇があり、壇上には本尊の大日如来を安置しています。昭和51年(1976)に放火によって内部を焼損しましたが、昭和55年(1980)に修理を終えています。この三重塔は兵庫県の有形文化財に指定されています。
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鶴林寺常行堂

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
鶴林寺の常行堂は平安時代の後期に建立され、現存する日本最古の常行堂といわれています。間口4間、奥行3間、単層、寄棟造り、妻入、本瓦葺きです。全体に簡素な造りで、組物は大斗肘木です。屋根は当初は太子堂と同じ檜皮葺きでしたが、永禄9年(1566)に本瓦に葺きかえられています。明治40年(1907)に国の重要文化財に指定されています。
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鶴林寺鐘楼

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
鶴林寺の鐘楼は室町時代の応永14年(1407)に建立されています。間口3間、奥行2間、袴腰付で、入母屋造り、本瓦葺きです。明治40年(1907)に国の重要文化財に指定されています。青銅製の梵鐘は朝鮮・高麗時代に鋳造されたもので、これも国指定重要文化財です。黄鐘調(おうしきちょう)といわれる澄んだ高い音色を出すそうです。
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鶴林寺護摩堂

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
鶴林寺の護摩堂は室町時代の永禄6年(1563)に建てられています。間口3間、奥行3間の三間四方の単層の入母屋造り、本瓦葺きです。明治40年(1907)に国の重要文化財に指定されています。護摩堂は火炉で護摩木を焚く場所です。鶴林寺の護摩堂は柱上の斗組を省略した簡素な小堂で、外部が和様、内部が禅宗様の折衷様式で造られています。
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鶴林寺行者堂

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
鶴林寺の行者堂は室町時代中期の応永13年(1406)に建てられています。当初は鶴林寺鎮守の山王権現(さんのうごんげん)を祀っていました。一間社隅木入春日造り、背面入母屋造りにした建物で、本瓦葺きです。昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。
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鶴林寺太子堂

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
鶴林寺の太子堂は明治34年(1901)に国宝に指定されています。堂内に聖徳太子の壁画像があることから太子堂と呼ばれていますが、本来は「法華堂」と称されました。太子信仰が盛んとなった鎌倉時代、法華堂の壁に聖徳太子の肖像が描かれ、以降は太子堂と呼ばれるようになったようです。
間口3間、奥行3間、檜皮葺きの宝形造りで、正面1間に通り庇を付けて縋破風(すがるはふ)の庇を葺き下ろしています。屋根板の墨書から天永3年(1112)に建立されていることが判明しています。堂内の中央には須弥檀が置かれ、釈迦三尊像(国指定重要文化財)が祀られています。
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鶴林寺本堂

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
鶴林寺の本堂は明治34年(1901)に国宝に指定されています。堂内の宮殿(くうでん、厨子)の棟札(むなふだ)2枚も附属で指定されています。間口7間、奥行6間、単層、本瓦葺きの入母屋造りです。棟札銘から室町時代中期の応永4年(1397)に建立されています。
本堂の軒の組物は二手先、垂木は平行垂木で、日本古来の建築様式である和様を基調としています。そこに反った屋根や、建具が全て桟唐戸など、大陸伝来の禅宗様が加わっています。蟇股の上に双斗(ふたつど)が乗り、一部の斗には皿板が付く皿斗であるなど、大仏様の要素も加わっていて折衷様建築になっています。
本堂内部は、手前3間が礼拝の為の外陣で、後ろより3間が仏像を安置するための内陣(宮殿)になっています。内陣の左右には1間幅の脇陣があります。内陣には3間幅の須弥檀と厨子が据えられ、秘仏本尊の薬師三尊像と二天像(ともに国指定重要文化財)を安置しています。
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鶴林寺

兵庫県加古川市加古川町北在家に鶴林寺があります。
刀田山(とたさん)鶴林寺は聖徳太子が開いたとされる天台宗の古刹で、「刀田の太子さん」と親しみを持って呼ばれています。西の法隆寺と称され、本堂と太子堂は、国宝に指定され、行者堂、護摩堂、鐘楼、常行堂は国の重要文化財に指定されています。
565年に、高麗より来朝した恵便(えべん)という高僧が仏教を広めるため我が国へ来ました。 当時の我が国では、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏が対立していました。物部氏は、兵を出して恵便をとらえようとしましたが恵便はあちこちと逃げ、現在の鶴林寺のあたりに身を隠しました。
聖徳太子は、恵便に仏教の教えを受けようとこの地を訪れ「木の丸殿」という丸太造りの御殿で教えを受けたそうです。589年、物部氏が倒され、四天王寺聖霊院という三間四面の精舎が建立され、釈迦三尊と四天王を祀りました。これが「鶴林寺」の始まりであると伝えられています。
養老2年(718)、武蔵国の大目(だいさかん、国司の役職)であった身人部春則(むとべはるのり)が太子の遺徳を顕彰するため、寺域を拡張し、七堂伽藍に整備しました。この時、刀田山四天王寺と改められたそうです。仁寿2年(852)、第3代天台座主円仁(慈覚大師)が中国に渡る際、寺へ立ち寄り立願成就のため諸堂の修理を行いました。この時に刀田山は天台宗に改宗したそうです。
天永3年(1112)、鳥羽天皇は刀田山を勅願寺に定め、「鶴林寺」の扁額を下賜しました。太子堂はこの年に建てられたようです。太子信仰が高まり鎌倉・室町時代には、寺坊は30数ヶ坊、寺領2万5千石にのぼり繁栄したそうです。。
信長、秀吉による宗教弾圧で疲弊し、続く江戸時代の政策で8カ坊、117石に激減、明治維新の排仏棄釈で宝生院、浄心院、真光院の3カ寺だけとなりました。しかし現在、堂塔16棟をはじめ、国宝2、重要文化財18、県指定文化財10、市指定文化財16、寺宝200余点を残しています。
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相生の松

兵庫県高砂市高砂町東宮町に高砂神社があります。
創建まもなく境内に生え出たのがこの相生の松だと伝えられています。根は一つで雄雌の幹が左右に分かれていたのでそれを見た人々が神木霊松などと称えていたところ、ある日、「尉と姥」の二神が現われて「我は今より神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん」と告げられました。この時より人々により「相生の霊松」と呼ばれるようになりました。この松を前にして結婚式を挙げるようになったそうです。
姫路城主本田忠政は相生の松の枯死を惜しみ三代目相生の松を継植しました。大正13年(1924)に天然記念物に指定されましたが昭和12年(1937)松食い虫に冒され、その幹だけ相生古霊松舎に名残をとどめています。
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高砂神社

兵庫県高砂市高砂町東宮町に高砂神社があります。
高砂神社は、社伝によれば神功皇后が外征のとき、大己貴命(おおむなちのみこと)の神助を得て敵を平らげ、帰途この地に国家鎖護のために大己貴命を祭られたのが始まりだということです。
天禄年間(970-972)に日本国内に疫病が流行しました。神託によって素盞嗚命(すさのうのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を合わせ祀ったところ、疫病が収まり、庶民は喜んでお礼参りをしたそうです。
武将の崇敬が厚く、安和元年(968)源満仲が社殿を造営、正慶年間(1332-34)には赤松則村が社領を寄進しています。文禄元年(1592)豊臣秀吉は、朝鮮出兵の時、高砂神社に参拝し戦勝を祈願したと伝えられています。
慶長6年(1601)姫路城主の池田輝政は高砂城築城のため、西北の松林に遷座しました。元和5年(1619)京都所司代板倉勝重は所領10石を寄進、天樹院(千姫)をはじめ、多くの武将、貴人、学者、詩人、歌人、俳人がこの神社を歴訪しています。
元和元年(1615)に出された幕府による一国一城令により高砂城が廃城になり、寛永2年(1625)、本多忠政が高砂神社を旧社地に再建し、にぎやかな遷座祭を行ったそうです。
高砂神社は「高砂やーこの浦舟に帆を上げてーー」で有名なおめでたい謡曲「高砂」で知られる由緒ある神社です。境内には縁結びの象徴として有名な「相生の松」があります。
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お菊井戸

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
姫路城内には「お菊井戸」があります。女中のお菊はお家乗っ取りの企てを知り、城主の難を救いました。家老はそれを根に持ち、家宝の皿一枚を隠してお菊を責め、井戸に投げ込んだという話です。
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桜門橋

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
桜門橋は幅7m、長さ22の橋で、平成19年に完成しました。発掘調査で出土した橋台の遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして築かれたものです。大手門に内濠を渡るために架けられた木橋です。
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姫路城石垣

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
姫路城の石垣は扇を開いたように美しい曲線美を見せています。野面積みの石垣も角石は大きな長方形の石を左右交互に積む算木積みになっています。
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姫路城西の丸櫓

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
姫路城の西の丸は2代将軍秀忠の長女「千姫」ゆかりの場所です。豊臣秀頼に嫁いだ千姫は大阪落城のあと、本田忠刻に再嫁し、西の丸で過ごしました。化粧櫓や長局(百間廊下)などに名残をとどめています。西の丸の化粧櫓などは国の重要文化財に指定されています。
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水五の門

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
水五門は天守閣を守る重要な門でした。鉄板張りの頑丈なもので暗い六門から大天守の玄関扉へ入る厳重な二重戸になっています。水五門やニの渡櫓の1階の材が大天守と西小天守の石垣にとりつく状態から、天守群の中で最後につくられたものと考えられています。
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姫路城二の渡櫓

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
ニの渡櫓は東面で大天守に、西面で西小天守に接続しています。建物の高さは9.68m、建物面積56.784平方m(17.177坪)です。1階に水五門を設けています。他の渡櫓とともに、昭和26年(1951)に国宝に指定されています。
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姫路城乾小天守

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
乾小天守は大天守の西北に位置しています。3重4階地下1階、本瓦葺きで、東面は「ロの渡櫓」に、南面は「ハの渡櫓」に接続しています。1重の西面に軒唐破風を設け、3重の南面と西面に黒漆塗り・錺金具打ちの火灯窓を2ヶ所ずつ設けていて、西面を中心に意匠を凝らしています。昭和26年(1951)に国宝に指定されています。
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姫路城西小天守

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
姫路城の西小天守は大天守の西南に位置しています。3重3階地下2階、本瓦葺きで、東面は「ニの渡櫓」に、北面は「ハの渡櫓」に接続し、地階東面に「水六門」を備えて出入口としています。南面は中央に軒唐破風を設けています。3重に黒漆塗り・錺金具打ちの火灯窓を2所設け、意匠を凝らしています。昭和26年(1951)に国宝に指定されています。
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姫路城東小天守

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
姫路城の東小天守は大天守の北に位置しています。3重3階地下1階、本瓦葺きで、南面は「イの渡櫓」に、西面は「ロの渡櫓」に接続しています。慶長14年(1609)頃、完成されたとみられています。昭和26年(1951)に国宝に指定されています。
姫路城の東小天守は西小天守や乾小天守と同じく二重の櫓部の上に望楼部をのせています。外観上は完全に一体化していて、唐破風や火灯窓などは備えていません。東小天守回廊から他の櫓へ行くことができるようになっています。
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姫路城大天守

姫路城大天守 031012himezizyou15.JPG
兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
姫路城大天守は外観5重、地下1階を含む内部7階、本瓦葺きで、本丸にそびえたっています。東小天守、西小天守、乾小天守と渡櫓でつながれた連立天守郭で、高さは31.8mあり、石垣まで含めると46m以上の大構築物です。
大天守は入母屋や千鳥破風、唐破風などが巧みに配置され、白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の外壁と調和して、優雅で気高い威容をつくり出しています。白漆喰の城壁の美しさから白鷺城とも呼ばれています。
大天守は日本における城郭建築最盛期を代表するもので、小天守などとともに昭和26年(1951)に国宝に指定されています。天守閣からの眺めはすばらしく、西に名古山、南に手柄山から播磨灘、北に書写山、広峯山などが一望に見渡せます。
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姫路城

兵庫県姫路市本町に姫路城があります。
世界遺産で国宝の姫路城は、日本を代表する最も完成された城郭建築です。木造城郭建築群と石造りの城壁、白色の土塀から構成される構造が最もよく残っています。しかも、長い歴史の中で一度も戦や火災に巻き込まれることなく、現在にその姿を伝えているのです。
今日に見る姫路城の全容を整えたのは本多忠政だといわれています。元和4年(1618)長男忠刻とその室千姫(豊臣秀頼に嫁ぎ落城の際助けられた徳川秀忠の長女)のために、西の丸を整備して、現在の規模にしたということです。
姫路城は播磨の守護職赤松則村が元弘3年(1333)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346)城を構えたことに始まりました。そして戦国期は領主は小寺氏が領主でした。小寺氏は天文14年(1545)御着城に移り姫路城は家老の黒田重隆に守らせました。
重隆の孫が黒田官兵衛孝高、後の黒田如水です。如水は早くから、信長、秀吉へ恭順の意を明らかにし、姫路城を秀吉に献じ自らは別の城に移りました。羽柴秀吉が天正8年(1580)西国攻略の際、如水の進言によりここを根拠地とし、翌9年3層の天守閣を完成させました。
天正8年(1580)秀吉が池田輝政、黒田孝高を普請奉行に任じ拡張工事を行ない。巨大な要塞にしました。羽柴秀長、木下家定と続き、関が原の役後、徳川家康の女婿池田輝政(52万石)が入封しました。池田氏は3代続きました。
池田氏が鳥取に転封となると、伊勢から本多氏が入城しました。本多忠政は今日に見る姫路城の全容を整えました。その後、城主は松平氏、榊原氏と変わり、寛永3年(1749)酒井忠恭が入城後は10代120年にわたって酒井氏がここを治め明治維新を迎えました。
城構えは、本丸を中心に二の丸、三の丸、西の丸を配し、これを囲んで内曲輪(くるわ)、中曲輪、外曲輪を螺旋状にめぐらしています。これらの縄張りは複雑で巧妙に仕上げられており、日本における諸城の中で抜きん出ています。
櫓、多聞に設けられた各種の狭間(はざま)、無数とも思える城門を上下、左右に配置した防備の厳重さは、卓越した築城手腕をうかがわせ、日本一の名城と呼ばれるにふさわしい見事なものです。
大天守の北には東小天守、西には西小天守、北西には乾小天守が配され、それらを渡櫓(わたりやぐら)で結んでいます。これらはいずれも国宝に指定されています。他にも菱の門、太鼓、西の丸の化粧櫓など74もの建物が国の重要文化財に指定され、城郭全域が国の指定特別史跡になっています。
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円教寺弁慶鏡井戸

兵庫県姫路市書写に円教寺があります。
円教寺の食堂と大講堂に挟まれた一角に、弁慶の鏡井戸があります。長さ3m、幅2mばかりの池のような井戸です。弁慶が昼寝をしている間に顔に悪戯書きされ、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し大喧嘩になったそうです。それがきっかけで山内が大火事になったといわれています。
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和泉式部歌塚

兵庫県姫路市書写に円教寺があります。
円教寺の護法堂の奥に和泉式部の歌塚があります。一条天皇の中宮彰子に仕えていた和泉式部は、彰子に伴って性空上人を訪ねました。面会を断られた式部は寺の柱に一首の和歌を書いたそうです。
くらきより くらき道にぞ 入りぬべき
はるかに照らせ 山の端の月
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円教寺護法堂拝殿

兵庫県姫路市書写に円教寺があります。
円教寺の護法堂拝殿は間口7間、奥行2間、単層、切妻造り、本瓦葺きの細長い建物です。開山堂参籠行者の、護法堂への勤行、礼拝のための建物で、天正17年(1589)建てられています。開山堂、護法堂とこの拝殿の配置は「三之堂」と同じ形式で、本殿と拝殿が広場をへだてて相対しています。
護法堂拝殿は神社形式を取り入れた仏殿のような建物で、一風変わった拝殿です。弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃にここで修行したことから「弁慶の学問所」と呼ばれています。勉強机も残されていて食堂に展示されています。拝殿は平成26年(2014)に国の重要文化財に指定されています。
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http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/

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