修学院離宮・上離宮・千歳橋

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
浴龍池の中島・万松塢(ばんしょうう)と窮遠亭のある中島の間に千歳橋(ちとせばし)と呼ばれる石橋が架けられています。文政7年(1824)の修学院離宮の改修した時に、京都所司代であった内藤信敦が橋台を寄進しました。文政10年(1827)には水野忠邦が上の屋形を寄進したものです。
切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡し、東には宝形造り、西には寄棟造りの四阿(あずまや)風な建物を架けています。宝形造りの屋根の頂部には金銅の鳳凰が立っています。中国的な感じで少し違和感がありますがアンバランスの美しさも覗いています。
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修学院離宮・上離宮・窮遠亭

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
上離宮にある中島の頂上に窮遠亭(きゅうすいてい)が建てられています。後水尾院によって造営された建物の中で唯一、創建当初からある建物です。宝形造り、こけら葺き、三間四方の茶室で、屋根の上に瓦製の露盤を置き、その上に切子頭の宝珠を乗せています。南側と東側には縁があり、土間庇をめぐらしています。
窮邃亭は18畳と東隅に板間の水屋1間だけです。一隅に直角に折れて畳1枚高くした上段を設け、上段西側いっぱいに低く1枚板を渡して御肘寄(おひじよせ)としています。簡素な造りですが、窓越しに浴龍池の風景が眺められます。南側上がり口の軒下に掲げられた「窮邃」と書かれた扁額は後水尾上皇の御宸筆で、八角の板2枚を使った凝った作りになっています。
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修学院離宮・上離宮・雄滝

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
隣雲亭の横から、北にある窮遠亭に向かって降りて行きます。途中には滝見燈籠があり、雄滝の滝の音が響いてきます。音羽川の水を引いている修学院離宮の雄滝は落差6mで、水量も豊かです。後水尾上皇は滝を好まれ、仙洞御所と同じように、雄滝と雌滝が造られています。
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修学院離宮・上離宮・隣雲亭

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
上離宮には隣雲亭(りんうんてい)と窮邃亭(きゅうすいてい)が建てられています。止々斎という建物もあったそうですが、宝永6年(1709)に仙洞御所に移されました(天明の大火(1788年)で焼失しています)。
隣雲亭は標高150mと、修学院離宮で最も高い位置にある茶室です。眼下には浴龍池が展開し洛北の山々が見渡せます。
当初の建物は延宝5年(1677)に焼失し、現存の建物は文政7年(1824)に再建されたものです。景色を堪能する所であったので簡素な造りで、床、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられる程度です。主室の「一の間」は6畳、その南に3畳の「二の間」があり、一の間の北は「洗詩台」という2坪の板間があります。
隣雲亭の深い軒下の三和土(たたき)には、漆喰に鞍馬の赤石と賀茂川の真黒石が埋め込まれています。埋め込み方が、一粒、二粒、三粒の三通りになっているので、「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれています。
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修学院離宮・上離宮・御幸門

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
中離宮から下離宮近くまで戻り、二手に別れていた御馬車道を東に行くと上離宮に着きます。上離宮の御幸門は袖垣が木賊貼り、こけら葺きの簡素な門です。花菱の透彫りがここにも設けられています。脇の潜り戸から上離宮に入ると大刈込みで下からは木しか見えない階段があります。登りきると、視界が開け隣雲亭があります。
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修学院離宮・上離宮・大刈込み

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
上離宮に上る御馬車道から左手前方に大刈込みが見えます。上離宮には、浴龍池という大きな池が築かれていて、その土堤や石垣を隠すために数十種類の常緑樹を混植し、広大に刈り込んだ大刈込みで覆っているのです。
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修学院離宮・中離宮・客殿

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
中離宮の客殿は延宝6年(1678)に東福門院(東福門院は後水尾天皇の女御で徳川2代将軍秀忠の娘です)が亡くなった後に、光子内親王のために女院(にょいん)御所の奥後対面所を林丘寺に移築したものです。客殿は書院造りで、延宝5年(1677)に建てられています。
客殿は入母屋造り、木賊葺きの庇の深い屋根があり、板戸を建て、濡縁をを廻しています。その欄干の一部分には、乱菱状の格子が設けられ、「網干(あぼし)の欄干」といわれます。漁村で網を干した形に似ていることから名づけられたそうです。
客殿は西側の南に「一の間」、その東に「二の間」、その北に「三の間」があります。一の間の北には仏間もあります。一の間は12畳半で豪華な造りです。ここの1間半の飾り棚は霞棚(かすみだな)と呼ばれ、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一つに数えられています。互い違いの欅板が霞がたなびいているように見えることから名づけられたそうです。
地袋の戸の引手が羽子板になっていたり、床の壁や襖は、腰張が群青と金の菱形模様という斬新な意匠です。棚の壁面には後水尾上皇の勅命により詠まれた、修学院八景を詠み込んだ漢詩と和歌の色紙が貼り付けてあります。金具などには三つ葉葵の紋が入っていて、東福門院が徳川家から嫁いだことを物語っています。
二の間は10畳で、狩野永敬の四季絵があり、南側の畳縁の杉戸には鯉と鮒、大鯉を描かれています。魚たちが夜な夜な絵から抜け出して庭の池で泳ぐため、漁網を描き加えたといわれます。楽只軒に通じる階段との境の杉戸には、狩野敦信が描いたといわれる祇園祭の放下鉾と岩戸山の絵が描かれています。
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修学院離宮・中離宮・楽只軒

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
楽只軒(らくしけん)は光子内親王のための最初の建物でした。その後、内親王の山荘は林丘寺(りんきゅうじ)となりました。楽只軒の扁額は後水尾上皇の御宸筆で、額縁は三種の竹に七宝の竹葉が付けられています。扁額の年紀銘から寛文8年(1668)か、その前年に建てられたようです。「詩経」の「楽只君子万寿無期」から後水尾上皇が名づけられたそうです。
楽只軒は単層、本瓦葺き、正方形の建物で、南面と東面に板縁を設けています。手前にある一の間と、その奥に二の間があります。一の間は6畳で北側に床を設け、襖絵は吉野山桜図が描かれています。二の間は8畳で、竜田川紅葉図が描かれています。これらの襖絵は狩野探幽の子の探信が筆を執っています。
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修学院離宮・中離宮中門

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
中離宮の表門から石段を上ると古めかしい中離宮の中門があります。こけら葺きの庇に襷掛けの扉を付けています。木賊張りの袖塀が左右に連なっています。脇の通用門らか中へ入ると、木々の間に楽只軒や客殿が見えます。
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修学院離宮・中離宮表門

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
下離宮の東側の御馬車道は二手に別れ、南に行くと中離宮です。ここには後水尾上皇の第1皇女「梅宮」が出家した円照寺という尼寺がありました。その後、上皇の第8皇女「光子(てるこ)内親王」が造営した朱宮(あけのみや)御所になりました。上皇の死後、林丘寺という寺になり、明治に修学院離宮の一部となりました。表門は木賊貼りとなっていて、国賓公賓などの要人の方が訪れたときに開かれるそうです。
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修学院離宮・御馬車道

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
寿月観から東門を抜けると御馬車道(おばしゃみち)に出ます。下離宮の東側には、中離宮や上離宮に向けて松並木の御馬車道があり、背後に棚田や御茶屋山が広がる雄大な眺望となっています。明治になって中離宮が併合された時、馬車での通行を考慮し、拡幅整備され、赤松が植樹されたそうです。
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修学院離宮・下離宮・寿月観

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
寿月観は後水尾上皇が行幸された時の御座所でした。現在の建物は数寄屋造り、こけら葺きで、文政7年(1824)に光格上皇の行幸に備えて再建されたものです。寿月観の一の間は15畳で、3畳が上段の間になっています。1間半の床と、琵琶が置かれた琵琶床、飾り棚があり、棚の戸袋には鶴の絵、下の地袋には岩と蘭の絵が描かれています。原在中(はらざいちゅう)の筆によるものです。
西側の二の間との境には岸駒(がんく)筆の「虎渓三笑(こけいさんしょう)」の4枚の襖絵があります。二の間は12畳で、正面には杉戸があります。光格上皇のお好みで、仙洞御所から移したと伝えられています。その南に6畳の三の間が設けられ、従者の控えの間として使われました。一の間南側軒下の「寿月観」の扁額は後水尾上皇の御宸筆です。
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修学院離宮・下離宮庭園

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
御幸門の右手奥に中門があり、門の左にはシナノキが植えられています。修学院十境の一つであった菩提樹を偲んでいます。下離宮の庭園には袖形燈籠、朝鮮燈籠、があります。
中島に架かる石橋を越えた右手に袖形燈籠があります。ワニが口をあけているように見えるので,鰐口(わにぐち)とも呼ばれる珍しい形をした燈籠です。上部の蛭釘に釣燈籠を下げて足元を照らしたそうです。
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修学院離宮・下離宮・御幸門

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
修学院離宮の御幸門は下離宮の入口です。切妻造り、こけら葺きの簡素な門で、花菱紋の透彫りが特徴的で、石段の上に西向きに建っています。その名の通り、行幸の際に用いられた門です。後水尾上皇が造営した時にはもっと手前にあったそうですが、霊元上皇の時に現在の位置に移されたそうです。
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修学院離宮総門

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
修学院離宮の総門は白木の丸太の門柱に竹の門扉を取り付けただけの簡素な門です。扉と袖垣は割った竹を貼った「木賊(とくさ)貼り」という装飾がなされています。
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修学院離宮

京都府京都市左京区修学院薮添に修学院離宮があります。
修学院離宮は曼殊院の北、比叡山の南西の麓にある皇室関連の施設です。この地は僧・勝算(しょうさん)が建てた修学院のあった所で、中世に荒廃して村名だけが残されていました。
後水尾(ごみずのお)天皇の女御であった東福門院は徳川2代将軍秀忠の娘でした。離宮は譲位した後水尾上皇を慰めるために、明暦元年(1655)から万治2年(1659)頃にかけ徳川幕府が造成寄進したものです。
造営にあたっては上皇がいっさいを指示したといわれています。当初は修学院山荘とか御茶屋と呼ばれたそうです。総面積約54万5千平方mと広大な敷地があり、土地の高低にしたがって、上離宮、中離宮、下離宮に分かれ、いずれも凝った趣向の茶亭などが建てられています。
中離宮の付近の場所には、後水尾上皇の第8皇女であった光子(てるこ)内親王のために寛文8年(1668)に造営された朱宮(あけのみや)御所がありました。それ以前は後水尾上皇の第1皇女であった梅宮が出家した円照寺という尼寺でした。
そして朱宮御所は上皇の死後は、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められました。明治18年(1885)に林丘寺の境内の約半分が宮内省に返還され、楽只軒(らくしけん)と客殿などが修学院離宮の一部となったのです。
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赤山禅院

京都府京都市左京区修学院開根坊町に赤山禅院(せきざんぜんいん)があります。
赤山禅院は修学院離宮の北にあります。延暦寺の塔頭の一つで天台宗のお寺です。京都御所の鬼門にあたるため、方除けの神として、「赤山さん」と呼ばれ古来信仰を集めました。
慈覚大師円仁の遺命により、天台座主であった安慧が泰山府君(赤山明神)を祀ったのが起こりといわれています。修学院離宮の造営で知られる後水尾天皇(1596-1680)が離宮へ行幸された際、社殿を修築され、「赤山大明神」の勅額を賜っています。
本殿、拝殿、本地堂などがあり、拝殿の屋根には鬼門除けの猿が置かれています。天台宗随一の荒行、千日回峰行の「赤山苦行」の寺としても有名です。千日回峰行を満行した大阿闍梨により「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」「泰山府君祭」などの加持・祈祷が行われます。
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本圀寺経蔵

京都府京都市山科区御陵大岩に本圀寺(ほんごくじ)があります。
本圀寺の経蔵は桃山時代の慶長12年(1607)、扇谷上杉家の太田資次によって再建された建物です。天明8年(1788)の大火で唯一焼失を免れた建物です。寛正5年(1464)、9世の日暁の時、8代将軍・足利義政から天下静謐の祈祷の恩賞として、一切経とともに寄進された経蔵でした。天文5年(1536)、天文法難で罹災したのでした。
昭和51年(1976)に移転再建された経蔵は間口3間、奥行3間の、宝形造りで、単層、本瓦葺きです。正面に1間の庇を葺きおろしています。輪蔵式経蔵で、内部に一切経を納めた582の引き出しがある創建当初の八角形の輪蔵が保存されています。輪蔵を一回転させると一切経をすべて読んだのと同じ功徳があるそうです。本圀寺経蔵は大正14年(1925)に国の重要文化財に指定されています。
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本圀寺大本堂

京都府京都市山科区御陵大岩に本圀寺(ほんごくじ)があります。
本圀寺の大本堂は本師堂の横に昭和48年(1973)に建てられました。日朗、日印、日静、日伝が祀られています。勝利大黒天像は、室町時代、諸宗との問答対決の際に、日朗の弟子・日印が懐に忍ばせていたものです。幕府は、日蓮門下の敗北と追放を謀りましたが、日印は、これを論破し、勝利を得たことから、勝利大黒像と呼ばれるようになったそうです。
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本圀寺本師堂

京都府京都市山科区御陵大岩に本圀寺(ほんごくじ)があります。
本圀寺の本師堂は大本堂の横に昭和46年(1971)に建てられました。日蓮上人の持仏であった釈迦尊(閻浮第一立像釈迦牟尼世尊)が祀られています。閻浮第一(えんぶだいいち)」とは世界中に二つとないという意味です。亡くなる前に、2世の日朗授け、末代まで本圀寺でお祀りするよう遺言したそうです。
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本圀寺仁王門

京都府京都市山科区御陵大岩に本圀寺(ほんごくじ)があります。
本圀寺の仁王門は加藤清正が寄進した赤門の後方に平成15年(2003)に建てられた門です。正面の扁額に正嫡付法と書かれています。貞和3年(1348)、4世の日静が北朝第2代の光明天皇から正嫡付法の綸旨を賜り、三位僧都に任命されたものです。
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本圀寺

京都府京都市山科区御陵大岩に本圀寺(ほんごくじ)があります。
大光山本圀寺は日蓮宗の大本山の一つで、「東の祖山」久遠寺に対し、「西の祖山」「西の総本」と呼ばれています。建長5年(1253)に日蓮上人(1222-1282)が神奈川県の鎌倉にある松葉ヶ谷で草庵の法華堂を開いたのが始まりです。伊豆法難により、志は2世の日朗、3世の日印に引き継がれました。
貞和元年(1345)、4世の日静が北朝第2代の光明天皇より寺地を賜り、京都の六条堀川に移転し、本國寺と改称しました。その後、妙顕寺とともに京都の日蓮宗を代表するお寺になりました。しかし天明8年(1788)の大火で妙顕寺は灰燼に帰し、本圀寺も本堂・五重塔をはじめほとんどの堂宇が焼失しました。
文久3年(1863)には本圀寺事件が起きました。宿泊中の鳥取藩側用人・黒部権之介らが、河田景与ら因幡二十士に襲われ、暗殺された事件です。昭和46年(1971)、本圀寺は旧末寺の離散や多数の訴訟と借財で、堀川の地を売却し、現在地の山科へ移転しています。
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勧修寺型灯篭

京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町に勧修寺があります。
京都市の名勝に指定されている勧修寺の庭園の中に大きな傘を持つ変わった形の灯篭があります。勧修寺型灯篭と呼ばれ、水戸光國の寄進と伝えられています。
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勧修寺宸殿

京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町にがあります。
勧修寺の宸殿は元禄10年(1697)に明正天皇より旧御所御対面所を下賜された建物です。入母屋造り、桟瓦葺き、寝殿造り風の建物で、一の間、二の間、三の間があります。一の間には幅2間の床と1間の棚、そして付書院を備えた書院造りです。宸殿は本堂とともに昭和60年(1985)に京都市の有形文化財に指定されています。
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勧修寺

京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町にがあります。
亀甲山(きっこうざん)勧修寺は真言宗山階(やましな)派の大本山です。昌泰3年(900)、醍醐天皇は生母・藤原胤子(いんし)の菩提を弔うため生母の実家である宮道(みやじ)家の邸宅を寺に改め、外祖父・藤原高藤の諡号をとって、勧修寺と名付け、のちに醍醐天皇の勅願寺となりました。
天皇家、藤原家のもとで繁栄し、鎌倉時代に後伏見天皇の皇子・寛胤(かんいん)法親王(1309 - 1376)が15世長吏となって以来、勧修寺は宮門跡寺院となり、幕末まで法親王、入道親王が相次いで入寺されました。
応仁の乱や文明2年(1470)の兵火で焼失し、豊臣秀吉によって境内地を削られ(伏見街道を造るため)、次第に衰退していきました。江戸時代には徳川家綱、綱吉の帰依を受け伽藍が整備され、再興されました。
境内東側には手前から宸殿、書院、五大堂、本堂などが建てられています。境内西側は氷室(ひむろ)池を中心とした庭園になっています。寺宝であった国宝の刺繍釈迦如来説法図は奈良時代の貴重な文化財で奈良国立博物館に移されています。
勧修寺の書院は江戸中期(17世紀末)に建てられた後西院(ごさいいん)御所の旧殿を貞享3年(1686)に下賜された建物だといわれています。間口正面6間、背面9間、奥行東側5間、西側4間、単層、入母屋造り、こけら葺きです。大正3年(1914)に国の重要文化財に指定されています。
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松丸殿五輪塔

京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峰に豊国廟(ほうこくびょう)があります。
豊国廟には松丸殿の五輪塔が建てられています。松丸殿は浅井長政の姪で、若狭守護・武田元明に嫁ぎました。本能寺の変後、明智光秀に味方した夫は殺害され、京極高次の取り成しで秀吉の側室にされました。出家後、処刑された秀頼の子・国丸松の遺骸を引き取り、帰依した誓願寺(中京区)に埋葬しました。その後、豊国廟に国松丸の墓とともに移されました。
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国松丸五輪塔

京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峰に豊国廟(ほうこくびょう)があります。
豊国廟にある国松丸の五輪塔は松丸殿の五輪塔の左に建てられています。国松丸は豊臣秀頼の側室の子で、千姫をはばかり、生後すぐに若狭京極家に預けられ、砥石屋弥左衛門の養子となりました。大坂冬の陣で大坂城に入城し、夏の陣で城外で捕らえられ六条河原で斬首されました。享年8歳でした。
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豊国廟

京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峰に豊国廟(ほうこくびょう)があります。
豊国廟は日枝神社前の参道を東に進んだつきあたり(京都女子学園・大学の奥)、阿弥陀ケ峰(標高196m)の山頂にあります。慶長3年(1598)に63歳で他界した豊臣秀吉の遺体は翌年、遺言で阿弥陀ヶ峰に葬られ、頂上に祠廟が建てられました。
後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、壮大な社殿では、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われました。しかし元和元年(1615)に豊臣は滅亡し、廟は徳川により打ち壊されてしまいました。
明治30年(1897)、秀吉の三百年忌に再建され、墳上に高さ10mの巨大な五輪塔が建てられました。社殿は、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿の地に、豊国神社として再建されています。階段下左手には豊臣秀頼の子・国松丸と秀吉側室・松丸殿の五輪塔があります。
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善能寺

京都府京都市東山区泉涌寺山内町に泉涌寺があります。
善能寺(ぜんのうじ)は、泉涌寺の塔頭で二階堂とも呼ばれました。本尊の阿弥陀如来像を祀っています。境内にある祥空殿は昭和46年(1971)、北海道で遭難した航空機「ばんだい号」犠牲者遺族・谷本氏が、犠牲者の冥福と航空機事故の絶無を願いを寄進したものです。
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来迎院

京都府京都市東山区泉涌寺山内町に泉涌寺があります。
泉涌寺の塔頭である雲龍院は空海(弘法大師)の創建と伝えられています。わが国最古の荒神坐像(国重文)があり、本尊に阿弥陀如来を祀っています。境内の一角に赤穂義士・大石良雄が建てた茶室「含翠軒(がんすいけん)」があります。扁額「含翠」は良雄の筆によるものです。
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