円融寺

東京都目黒区碑文谷に円融寺(えんゆうじ)があります。
経王山円融寺は、区内では目黒不動につぐ古い天台宗のお寺です。仁寿3年(853)に慈覚大師が創建したと伝えられ、妙光山法服寺という天台宗のお寺だったそうです。弘安6年(1283)に日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、妙光山法華寺と改称しました。
一時は朱印19石、寺坊18、末寺75という江戸近郊第一の名刹といわれましたが、不受不施派の宗論が幕府の忌諱にふれ弾圧されました。改宗を余儀なくされ、元禄11年(1698)再び天台宗のお寺になりました。
天保5年(1834)に現在の経王山円融寺と改めています。不受不施派とは、法華経信者以外からは施しを受けず、与えずという一派で、日蓮宗本山の久遠寺とも対立し、江戸幕府からも弾圧されたのでした。
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亀戸天満宮

東京都江東区亀戸に亀戸天満宮(かめいどてんまんぐう)があります。
亀戸天満宮は正式には亀戸天神社といいます。昔は東宰府天満宮、本所宰府天満宮などと呼ばれました。「亀戸の天神さま」「亀戸天満宮」として人々から親しまれています。明治6年(1873)に東京府社となり亀戸神社となり昭和11年(1936)からは亀戸天神社としています。
祭神は菅原道真で、大宰府天満宮で神官をつとめていた菅原信祐が霊夢を見て全国に社殿建立の志を立て諸国を巡り、寛文元年(1661)に江戸へ到着、本所亀戸村にあった小祠に神像をまつったのが起源とされています。
徳川4代将軍家綱が土地を寄進し、寛文2年(1662)大宰府天満宮に模して社殿・楼門・回廊などが建てられたそうです。
境内には一本の樹に紅梅と白梅が咲く有名な「五賢の梅」があります。横には5歳の菅公の銅像があります。
「美しや 紅の色なる 梅の花
あこが顔にも つけたくぞある」
という歌が書かれています。
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旧古河庭園

東京都北区西ケ原に旧古河庭園があります。
旧古河庭園は銅山王と呼ばれた古河市兵衛の旧宅にあり、国の名勝に指定されています。和風庭園と西洋庭園が同居する和洋折衷の珍しい庭園です。洋風庭園と和風庭園は、それぞれ設計者が異なっているのです。
洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア・コンドル博士です。博士は明治から大正にかけて日本に住み、鹿鳴館や旧帝国博物館など数十件の設計を手がけ、わが国建築界の発展に多大の貢献をしました。
洋館は英国貴族の邸宅にならった古典様式で、天然スレートぶきレンガ造り、外壁は真鶴産の赤味をおびた小松石(安山岩)でおおわれています。
一方、和風庭園は、京都の著名な庭師、植治こと小川治兵衛が作りました。この庭園は、明治の元勲、陸奥宗光の邸宅でした。宗光の次男が古河財閥の養子となったため古河家所有になりました。そして第2次大戦後に国のものとなったそうです。
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矢切の渡し

東京都葛飾区柴又に矢切の渡し(やぎりのわたし)があります。
柴又公園の目の前に江戸川土手が広がります。ここから、矢切の渡しの乗船場がみえます。江戸幕府はここに関所を作り、江戸の出入りを取り締まっていたため、周辺に住む農民が川を渡る手段としてのみ、この渡しを利用することが出来たそうです。
矢切の渡しは都内に残る唯一の渡し舟です。江戸川をはさんで葛飾区の柴又と松戸市の下矢切の間を結んでいます。伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、昭和57年(1982)のヒット曲「矢切の渡し」生んだ渡し場です。
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柴又帝釈天(題経寺)

東京都葛飾区柴又に柴又帝釈天(題経寺)(しばまたたいしゃくてん(だいきょうじ))があります。
柴又帝釈天は寛永6年(1629)、日忠上人が開いたといわれる日蓮宗のお寺です。正式な名称は経栄山題経寺といいます。日蓮上人自刻の帝釈天板本尊を祀ることから「柴又帝釈天」と呼ばれています。
題経寺の中興の祖とされているのが9世の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧でした。板本尊は長年行方不明でしたが、安永8年(1799)本堂再建の際に発見され、この日が庚申の日だったため、以来庚申の日を縁日の日にしたそうです。
天明3年(1783)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませました。すると不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったそうです。
映画「男はつらいよ」シリーズで渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として毎回登場したことから全国的に有名になりました。
境内には、「瑞龍の松」や寅さんが産湯をつかったといわれる御神水、そのかたわらには、浄行菩薩があります。また、回廊式の庭園・邃溪園も人気を集めています。
駅前から帝釈天まで続く約200m程の参道の、団子屋や土産物屋、煎餅屋などが並ぶ下町の商店街は、大勢の人でにぎわっています。
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葛西臨海公園

東京都江戸川区に葛西臨海公園(かさいりんかいこうえん)があります。
江戸川区にある葛西臨海公園は葛西臨海水族園や大観覧車がある都立公園で、葛西沖開発事業で造られました。水族館ゾーン、鳥類園ゾーン、芝生広場ゾーン、汐風の広場ゾーンなどに分かれています。
沖合には三枚洲と呼ばれる干潟が広がっています。15ヘクタールの西なぎさと、10ヘクタールの東なぎさがあり、潮流堤で区画を保護しています。平成8年(1996)には「日本の渚百選」に選ばれています。初日の出や、潮干狩り、夏には水遊びで大勢の人が押し寄せます。
水族園ゾーンには葛西臨海水族園があります。年間入場者数日本一の記録を持つ、東日本で最も人気のある水族館です。屋上は展望台になっています。
芝生広場ゾーンには日本一の大きさを誇る観覧車「ダイヤと花の大観覧車」があります。大観覧車は開業直後に福岡市のSky Dream Fukuokaに日本一を譲りましたが、平成21年(2009)に廃業したため、再び日本一に返り咲いています。
汐風の広場ゾーンは海に面しています。南中部の丘上にはガラス張りの展望レストハウス「クリスタルビュー」があり、海を一望できます。この丘は芦ヶ池の方まで続いていて、海抜0mの江戸川区を高波から守る防波堤になっています。
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築地場外市場

東京都中央区築地に築地場外市場(つきじじょうがいしじょう)があります。
築地市場は魚介類や青果類を扱う東京都の卸売り市場でした。平成30年(2018)10月に営業を終了し、豊洲市場が開場しました。昭和10年(1935)から83年間、日本最大規模の公設の卸売市場でした。
築地場外市場は一般の人も買物ができ市場として築地市場とともに発展してきました。築地市場はなくなりましたが都民や近県の人々の台所となっています。鮮魚はもちろん、調理道具、食肉、調味品などさまざまな食の専門店500店近くが迷路のように軒を連ねています。
有名立ち食いラーメン店や厚揚げ玉子焼きの人気店、焼き海苔の専門店、本場の寿司店など、外国人観光客も大勢押しよせています。
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築地本願寺

東京都中央区築地に築地本願寺(つきじほんがんじ)があります。
築地本願寺は京都の西本願寺の東京別院です。正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」といい、元和3年(1617)、西本願寺の別院として、東日本橋に建立されました。
明暦の大火(振袖火事)で焼失、その後、旧地への再建が許されず、代替地として八丁堀沖の海上に許可がおりたそうです。そこで佃島の人が中心になり本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝7年(1679)に再建、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。
築地という地名はこの埋め立てからきています。現在の古代インド様式(天竺様式)の伽藍は当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部教授・伊東忠太による設計です。昭和9年(1934)に完成しています。
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月島もんじゃタウン

東京都中央区月島に月島もんじゃタウンがあります。
月島仲通り商店街にはもんじゃ焼きのお店が60数件もひしめきあっていいます。しかもほとんどのお店に行列ができます。ひと昔前はもんじゃ焼きは子どもたちが集まる駄菓子屋で、おやつ代わりに焼いていたものだったそうです。
もんじゃ焼きは小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴です。ここでは材料や作り方はほとんど同じなのに、それぞれの店の個性ある味が楽しめます。
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日本橋高島屋

東京都中央区日本橋に日本橋高島屋があります。
日本橋高島屋は日本を代表する百貨店で、平成19年(2007)の朝日新聞のアンケートで、「好きな百貨店」の第1位に選ばれています。館内は地下2階・地上9階建てで、食料品売場・化粧品・ファッション・スポーツ用品・玩具・装飾品・家電・インテリア・レストランなど、様々なラインナップを取り揃えています。
日本橋高島屋は昭和8年(1933)に竣工された建物で、平成21年(2009)に百貨店建築で日本で初めての国の重要文化財に指定されました。三井本館と並び称される荘厳な近代建築で、創建時の名称は日本生命館で日本生命東京総局がおかれていました。
「東洋趣味ヲ基調トスル現代建築」という様式を求めた設計図案競技で1等に当選した、高橋貞太郎の案が採用され、重厚な西欧の歴史様式に、和風建築の意匠が随所に取り入れられています。大正11年(1922)に高島屋が借り受け、高橋の意匠を継承しつつ、近代建築の手法をふんだんに取り入れた百貨店へ、村野藤吾による増築が度々行なわれました。
中央通りに面したエントランスから続く、1階と2階2層分の大理石の柱が並ぶ吹き抜けが特徴です。シャンデリアは、戦時中の金属類回収令により供出したため、現在のものは村野藤吾がデザインしたものになっていますが、創建時同様に豪華に輝やいています。
高島屋の創業は天保2年(1831)に初代の飯田新七が、京都烏丸松原で、古着・木綿商を始めたのが最初です。屋号は、養父・儀兵衛が、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)出身であったので付けられたそうです。幕末には官軍に物資を調達し、明治31年(1898)に心斎橋に進出して財をなしました。
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日本銀行本店本館

東京都中央区日本橋本石町に日本銀行本店本館があります。
日本銀行は日本の中央銀行として、明治15年(1882)に日本銀行条例に基づいて設立されました。その後、日本銀行法が制定されて特殊法人になり、日本唯一の発券銀行、銀行の銀行、政府の銀行としての機能を果たしています。
日本銀行本店本館は明治29年(1896)に建てられた石造りと煉瓦造りの建物です。地上3階地下1階建で、屋根は鉄板葺きと銅板葺きで、正面に回廊を廻しています。外装は石積で、窓は両開き硝子戸欄間付です。延床面積は1100平方mになります。
この旧館本館は昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されています。設計者は明治建築界の巨匠といわれ、東京駅などを手掛けた辰野金吾です。欧米各国の著名な銀行を約14カ月掛けて視察し、ベルギーの中央銀行を手本とし、英国流パラディオ様式を加味してデザインしたといわれています。
旧館本館は大正12年(1923)にマグニチュード7.9の関東大震災に襲われ、昭和7年(1932)に起きた5・15 事件では手榴弾が投げ込まれました。昭和20年(1945)のB29爆撃機による東京大空襲などでも被災しました。幸い最小限の被害で済み、今もほぼ原型を保っています。
現在の日本銀行の建物は増改築によって拡張されてきました。旧館本館のほか、長野宇平治の設計で昭和初期に増築された旧館2号、3号館(1号館は新館増築の際に解体されています)、昭和48年(1973)完成の新館、昭和59年(1984)完成の分館(貨幣博物館)の4つの時代の建物があります。
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三井本館

東京都中央区日本橋室町に三井本館(みついほんかん)があります。
三井本館は、越後屋の跡地に建てられた三井不動産保有のオフィスビルです。三井財閥を形成した三井合名会社、三井銀行、三井信託、三井物産、三井鉱山などの本社が入る、財閥の拠点的な機能を持つ建物として作られました。
現在の建物は、明治35年(1902)竣工の旧三井本館が関東大震災で被災したため、昭和4年(1929)3月に建て替えられたビルです。複数の会社が入居する大規模なオフィスビルとして初めて、平成10年(1998)に国の重要文化財に指定されました。
鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上5階(現7階)地下2階建、建築面積4559.6平方mです。アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所が設計しジェームズ・スチュワート社が施工しました。新古典主義様式の外観を持つ建物で、イタリア・ヴェネツィア産の大理石などが使用されています。
現在でも三井不動産の本社、三井住友銀行日本橋支店、中央三井信託銀行日本橋営業部などが入居しているほか、7階には三井家の所蔵品を展示している三井記念美術館が平成17年(2005)に開館しています。隣には三井不動産が同年7月に竣工した超高層ビル「日本橋三井タワー」があります。
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日本橋

東京都中央区に日本橋があります。
日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られています。東海道をはじめ、中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道と、徳川幕府が定めた五街道の起点となっていて、ここから日本全国へ街道がのびています。
日本橋は日本橋1丁目と日本橋室町1丁目の間の、日本橋川に架けられています。徳川家康が幕府をひらいた慶長8年(1603)に初代の橋が架けられたようです。日本橋川は江戸城大手口と隅田川を結ぶ重要な水路として江戸経済の中心となりました。
橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。江戸の中で最も賑わう場所として、浮世絵による風景画に描かれています。明暦3年(1657)の明暦の大火により全焼し、明治維新までの間に10回もの火事にあっています。
明治初期に石造の日本橋が、肥後の石工である橋本勘五郎によって架けられました。明治後期には東京遷都30年を記念して橋の両端に杉細工の「緑門」と呼ばれる鳥居が建てられたそうです。現在の日本橋は東京市により、石造2連アーチの道路橋として明治44年(1911)に完成しました。
橋長49m、橋幅28m、アーチ径間21mで、平成11年(1999)に国の重要文化財に指定されています。壁石は切石積み。翼壁上に湾曲形の袖壁をめぐらしています。装飾用材は全て青銅で、中央及び橋台部4隅に花形ランプ付方錘柱を建て、各柱座に蹲踞状の麒麟を配しています。ルネッサンス式橋梁本体に和漢洋折衷の装飾が調和しています。米元晋一が設計し、妻木頼黄が装飾を担当し、装飾の制作は渡辺長男です。
日本橋の文字が刻み込まれたプレートは、徳川15代将軍慶喜の筆によるものです。橋の真中には、「日本国道路元標」のプレートが埋め込まれています。昭和19年(1944)3月10日の東京大空襲の際の焼夷弾跡が残されています。技術的、意匠的に優れた明治期を代表する石造アーチ道路橋です。
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明治座

東京都中央区日本橋浜町に明治座があります。
明治座は明治6年(1873)に誕生した「喜昇座」から135年以上の歴史と伝統を誇る日本で最も古い劇場です。その後、「久松座」「千歳座」と名称が変わり、明治26年、(1893)初代市川左團次によって「明治座」と改称され今日に至っています。
昔の明治座も近代的だったようですが、今の明治座も近代的な豪奢な建物です。 元々は近くの久松町にありましたが、関東大震災で消滅して今の場所に再建されました。
戦災で再び焼け落ちましたが戦後復興しました。その後火災で焼失し、再建された後に、今のビルに改装されました。135年もの歴史を歌舞伎、新派、新国劇をはじめとする数多くの名舞台で演出してきました。
新しい明治座は地上18階、地下2階、1368席の近代的なインテリジェントビルです。隅田川の流れをイメージした豪華なシャンデリア、金箔をちりばめた格天井、金蒔絵をあしらい安土・桃山調に統一された内装は観劇への期待を一層楽しく弾ませてくれます。
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浜離宮可美真手命銅像

東京都中央区に浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)があります。
浜離宮恩賜庭園「中の御門」入口近くには可美真手命(うましまでのみこと)の銅像があります。饒速日命(にぎはやのみこと)の皇子で、神武天皇の東方遠征に従い、手柄を立てたといわれる軍神です。明治27年(1894)、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品だということです。
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浜離宮お伝い橋

東京都中央区に浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)があります。
浜離宮恩賜庭園にある「お伝い橋」は平成9年(1997)に再築された橋です。橋の長さは117.8mで高知県産の総檜造りです。宝永4年(1707)、松平綱重の長男の綱豊(後の6代将軍徳川家宣)が、園内大改修を行ったときこの橋を架けたそうです。
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浜離宮潮入の池

東京都中央区に浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)があります。
浜離宮恩賜庭園には潮入の池があります。海水を引き、潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で多く用いられていた様式です。旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でしたが、現在、実際に海水が出入りしているのは、この庭園だけです。
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浜離宮庚申堂鴨場

東京都中央区に浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)があります。
庚申堂鴨場は安永7年(1778)に造られた鴨の遊猟施設です。他にも新銭座鴨場があります。11代将軍家斉は大いに活用したそうです。幕末から明治の初め荒廃しましたが、再整備され昭和19年(1944)まで使われたそうです。
鴨場が使われた離宮時代は園内に鷹部屋や鷹師宿舎、鷹匠小屋、調理所などがあったそうです。鴨場が利用されたのは冬鳥が飛来する晩秋から翌年の春先でした。現在、鴨場の施設が見られるのは全国でわずか5箇所しかないそうです。
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浜離宮樋の口山

東京都中央区に浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)があります。
小高い丘の「樋の口山」の上からは、レインボーブリッジや対岸の風景が眺められます。
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浜離宮水門

東京都中央区に浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)があります。
庭内にはいくつもの水門があります。浜離宮の池は海水を取り入れて、潮の干満により水位を上下させ、庭園の趣きに変化を生ずるように作られた「潮入の池」です。昔からこの堰で海水の出入りを調整しています。
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浜離宮将軍お上り場

東京都中央区に浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)があります。
浜離宮の将軍お上り場は、将軍が隅田川から浜御殿に来られた時や、舟遊びをして休息のために立ち寄られた時などに乗降された船着場です。現在も原形が保たれています。
明治元年(1868)、最期の将軍となった第15代将軍徳川慶喜は、大阪から軍艦海陽丸で江戸に入り、このお上り場から上陸して、騎馬で江戸城へ帰還したそうです。
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浜離宮灯台跡

東京都中央区に浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)があります。
浜離宮には灯台があり、東京湾に灯りを灯していました。現在はありませんが、灯台の礎石が残されています。
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浜離宮恩賜庭園

東京都中央区に浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)があります。
浜離宮恩賜庭園は隅田川の河口にあります。この地は、将軍家の鷹狩場で、承応3年(1654)、4代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が将軍から拝領して下屋敷を建てました。
その後、綱重の長男の綱豊が6代将軍家宣となったのを契機に、この屋敷は将軍家のものとなり、御浜御殿と称されました。その後、歴代の将軍によって造園、改修工事が行われ、11代将軍家斉の時にほぼ現在の規模の庭園になったようです。
明治3年(1870)、宮内庁の所管になり浜離宮とと改称され、皇室遊宴の地にあてられていました。関東大震災や空襲によって、大手門、御茶屋など数々の建造物や樹木が被害を受けましたが、江戸時代の代表的な大名庭園は残りました。
昭和20年、東京都に下賜され、翌年、公園として一般に有料で開放されました。昭和23(1948)年には国の名勝、史跡に指定され、昭和27年(1952)には周囲の水面を含めた面積32.4ヘクタールが旧浜離宮庭園で国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。
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銀座界隈

東京都中央区に銀座があります。
この銀座には老舗のデパートや専門店が集中しています。銀座和光は、宝飾品や時計、ハンドバッグ、服飾品、ルームアクセサリー、食品などの高級品を取り扱う専門店です。時計塔の建物は銀座4丁目のシンボルとして昔から親しまれています。かつては時計台は10カ所ありましたが関東大震災によって壊れ、和光の時計台のみとなっています。
和光ビル
慶長8年(1603)、江戸に幕府を 開いた徳川家康は、それまで駿府(静岡)にあった銀貨鋳造所を現在の銀座2丁目に移転させました。これが銀座の起こりです。新両替町から銀座という町名に変わったのはは明治2年(1869)です。、明治10年(1877)には国策によってレンガ街が誕生します。このレンガ街を明治政府はビジネス街にしようとしたのです。
銀座通りに日本初の街路樹が植えられたのは明治7年(1874)でした。銀座は元々、埋立地のため根腐れをおこさない柳が植えられるようになり風に揺れる風情のある緑がやがて銀座のシンボルとなり、歌や詩歌にも登場するほどになりました。
数多くの百貨店やビルの合間に老舗の洋食店などが佇む銀座です。高級ブランドショップがひしめくとともに、伝統文化が今も息づいています。
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永代橋

東京都中央区新川~江東区永代に永代橋(えいたいばし)があります。
永代橋は、隅田川にかかる橋で、西岸は中央区新川1丁目、東岸は江東区佐賀1丁目、永代1丁目に継っています。元禄15年(1702)、赤穂浪士の吉良上野介屋敷への討入りでは、上野介の首を掲げてこの永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったそうです。
元禄11年(1698)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝して、現在の橋よりも100m程上流に永代橋は架橋されたそうです。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材が使われ、当時としては最大規模の長さ110間(約200m)、幅約3間(約6m)の大橋が造られました。
明治30年(1897)、道路の橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス橋が架橋され、明治37年(1904)には東京市電による路面電車も敷設されました。関東大震災では、橋底の木材が炎上し、多くの焼死者、溺死者を出しました。大正15年(1926)に震災復興事業の第1号として現在の永代橋が再架橋されました。
永代橋はドイツ ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにした荘重な橋です。現存最古のタイドアーチ橋で、橋長184.7m、幅員25.6m、新たな鋼材を使って最大支間を実現した鋼アーチ橋でもありました。
「帝都東京の門」といわれたこの永代橋は、我が国の橋梁技術史上、高い価値がある橋梁として、清洲橋、勝鬨橋とともに、平成19年(2007)、国の重要文化財に指定されました。
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靖国神社

東京都千代田区九段北に靖国神社(やすくにじんじゃ)があります。
明治2年(1869)、明治維新政府が幕末から戊辰戦争にかけての犠牲者や戦没者を慰霊するために招魂社(しょうこんしゃ)を九段坂上の火除地3番丁原に設け設けました。これが靖国神社のが始まりです。
明治12年(1879)靖国神社と改称されました。神社の場所は、幕末時代の歩兵屯所のあった所で、広大な敷地の中には馬場もあったそうです。
「靖国神社」は、「国を安らかでおだやかな平安にして、いつまでも平和な国につくりあげよう」という気持ちを込め、明治天皇によって命名されたということです。
靖国神社の御祭神は、嘉永6年(1853)以降(戊辰の役、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変、第二次世界大戦)の戦死者・殉職者、246万6500余柱といわれています。
靖国神社は、明治以来国営化されていましたが、第2次世界大戦での敗戦以降、新たな宗教法人として全国遺族、崇敬者の手によってお祀りされるようになりました。
参道のほぼ中央にある大村益次郎の銅像は明治26年(1893)の設立です。日本で最初の西洋式銅像でした。上野の山にたてこもる彰義隊討伐に際して江戸城から指揮を執る勇姿と伝えられています。
大村益次郎は緒方洪庵の適塾で蘭学を学びます。安政3年(1853)に宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)に招聘され、宗城の参勤にしたがって上京し、麹町に鳩居堂という学塾をひらきました。
その後桂小五郎、周布政之助らの知遇を得、長州藩へ帰り出仕します。四境戦争の折には石州口の参謀を務め、約700人の兵で7500人の幕府軍を破ります。戊辰戦争時は軍防事務局判事として江戸の治安回復を命じられました。
明治新政府では兵部大輔を務め、新政府軍の軍政・軍令を統括し、天皇直属の中央常備軍編成に尽力しました。明治2年(1869)に、兵制改革に反対する長府藩士神代直人らに京都で襲われ重傷、敗血症で46歳の生涯を閉じました。
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