上野恩賜公園

東京都台東区上野公園に上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)があります。その中に東京都立恩賜上野動物園があります。
明治15年(1882)に開園された日本初の日本一の動物園です。総面積13万平方mという広大な園内に400種以上2000頭以上の動物を飼育しています。
ジャイアントパンダのいる動物園として有名です。平成29年(2017)6月12日に「シャンシャン」(メス)がここで誕生しています。
東園のゴリラとトラのすむ森も人気です。自然のままの状態で、のびのびと過ごしている姿が見られます。
西園と東園があり、上野駅公園口から入るとすぐが東園です。ここにはゾウ、ゴリラ、パンダ、サル山など、人気のある動物がそろっています。
西園の方にはアフリカの動物のカバやシマウマ、キリンなどがいます。仲良し広場や子ども動物園などがあります。
東園から西園に行くにはモノレールが便利です。旧寛永寺の五重塔がきれいに見えます。上野動物園は博物館(現東京国立博物館)の付属施設として造られたようですが、今や年間300万人が訪れる人気スポットになっています。
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http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/

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大仏山

東京都台東区上野公園に上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)があります。
かつて大仏が建立されていたこの地は大仏山と呼ばれています。寛永8年(1631)の初代大仏は、正保4年(1647)の地震で倒壊。万治年間(1660頃)に青銅製の2代目大仏が建立され、元禄年間(1690 頃)には大仏殿も完成しました。 今はミャンマー、ビルマ形式の仏塔パゴダが建っています。
上野の大仏は関東大震災でも 被災し頚部が崩れ、頭が落ちてしまいました。顔だけが長く寛永寺に保存されていました。関東大震災50回忌となった昭和47年(1972)に 、お身体のあった所にパゴダが建てられ、顔だけ戻りました。
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不忍池

東京都台東区上野公園に上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)があります。
上野恩賜公園の南側に位置する周囲約2kmの池です。東京湾の名残りで、周囲が埋め立てられて現在の形となりました。弁天橋より北側は上野動物園の敷地内で、水上動物園として利用されています。
不忍通りから半円を描くように囲まれた部分はボート池と呼ばれ、貸ボートがあります。弁天橋より南にある浮島には寛永寺弁天堂が建っていて、「蓮池」と呼ばれるほど、池一面にハスが生い茂っています。
天海僧正が吉野山より江戸時代に移植したことで始まった「上野の桜」は3月下旬から4月上旬にかけて上野の山や不忍池畔で咲き乱れます。
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東京都台東区上野公園に上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)があります。
上野公園内に西郷隆盛の銅像があります。慶応2年(1866)の薩長連合密約から王政復古クーデターに活躍、明治4年(1871)出仕して参議に就任し廃藩置県にたずさわりました。岩倉遣外使節団出発後、留守政府の責任者となりますが、朝鮮派遣の征韓論争、明治6年(1873)の政変で下野し、西南戦争で敗れ、鹿児島の城山で自決しました。
銅像は明治31年(1898)に完成しました。高村光雲が西郷像を、後藤貞行が犬の像を制作したそうです。日本で最初の「除幕式」の際、西郷未亡人が夫に似ていないと言ったことが話題になりました。
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上野恩賜公園

東京都台東区上野公園に上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)があります。
上野恩賜公園は都内だけでなく、日本でも有数の都市公園です。ここは江戸城の丑寅(北東)の方角にあたり鬼門を封じるため家康の意志を汲んだ三代将軍家光が寛永寺を建てたのが始まりです。
この公園には東京都立恩賜上野動物園、寛永寺・東京国立博物館、東京都美術館、東京文化会館、上野の森美術館、国立西洋美術館、国立科学博物館などの文化・芸術が集合しています。
江戸時代末期、15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷たちは、慶応4年(1868)大政奉還して上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために同志を募りました。
そこに新政府への不満武士なども加わり彰義隊と名乗りました。やがて新政府軍と対峙して上野の山を拠点として旧暦5月15日上野戦争が起こりました。戊辰戦争の始まりでした。新政府軍、大村益次郎が指揮を執り半日で彰義隊を壊滅させました。寛永寺の伽藍は焼失し一帯は焼け野原と化しました。
明治3年(1870)、医学校と病院を建設するため、焼け野原だった上野の山を視察した蘭医ボードウィンは、公園として残すよう日本政府に働きかけました。その結果、明治6年(1873)ここが日本で初めての公園として指定されました。ボードウィンは、上野公園生みの親と称されています。
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アメ横

東京都台東区上野にアメ横があります。
アメ横はアメヤ横丁の通称です。JR東日本の御徒町駅から上野駅間の山手線の高架橋西側と高架下に沿った商店街です。およそ400mの中に400軒以上の店がひしめき合っています。
名前の由来は諸説あるようです。アメリカ軍の払い下げ物資を安く売りさばく店が多く集まったという説、小遣い稼ぎに物資を持ち込んだアメリカ兵により同国の製品が大量に出回ったという説、飴を販売する店が軒を連ねたという説などです。
魚介類や乾物、衣類、雑貨、宝飾品などの店が業種ごとに集中しています。特に年末には威勢のいい呼び込みのダミ声の中、正月用の生鮮食品などを買い求める人たちでごった返します。
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浅草寺二天門

東京都台東区浅草に浅草寺二天門(せんそうじにてんもん)があります。
二天門は本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建っています。慶安2年(1649)頃の建立といわれています。元和4年(1618)に浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門」として建てられました。東照宮は寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の火災により諸堂とともに焼失し、その後江戸城紅葉山に移されました。
二天門は豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神をまつり、俗に「矢大神門(やだいじんもん)」といわれました。明治時代の神仏分離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった増長天・持国天の二天を奉安して「二天門」と改称しています。
二天門は切妻造り、本瓦葺きの木造朱塗りの八脚門で、「二天門」の扁額は最後の太政大臣、三条実美の筆です。第2次世界大戦にも焼け残った二天門は昭和21年(1946)に国の重要文化財に指定されています。
二天門の前には手水鉢が置かれています。手水鉢とは、参拝の前に身を清めるための水を蓄える鉢です。手水鉢の側面には、安永6年(1777)に浅草寺の消防組織の「臨時連中」によって寄進された事が刻まれています。
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東京国立博物館平成館

東京都台東区上野公園に東京国立博物館があります。
平成11年(1999)「平成館」がオープンしました。建物は地下1階地上3階建て。1階は日本の考古遺物などの常設展示室になっており、2階は特別展示専用となっています。
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東京国立博物館東洋館

東京都台東区上野公園に東京国立博物館があります。
東京国立博物館の東洋館には、中国、朝鮮、東南アジア、西域、インド、西アジア、エジプトなどの美術、工芸、考古遺物を展示しています。
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東京国立博物館表慶館

東京都台東区上野公園に東京国立博物館があります。
東京国立博物館の表慶館は明治42年(1909)、東宮皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の成婚を祝う目的で開館しました。設計は宮廷建築家の片山東熊(とうくま)です。昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されています。
石造り及び煉瓦造り、2階建、銅板葺きで、建築面積は2049.4平方mです。ネオ・バロック様式の建物で、中央と南北両端にドームがあり、中央のドームは吹き抜け、南北のドームの下は階段室になっています。中央ホールのモザイクタイルを張った床は見応えがあります。
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旧東京帝室博物館本館

東京都台東区上野公園に東京国立博物館があります。
東京国立博物館の本館は旧東京帝室博物館本館として平成13年(2001)に国の重要文化財に指定されています。昭和12年(1937)に完成し、現在も現役で博物館の顔になっています。
鉄骨鉄筋コンクリート造り、2階建、地下2階、正面玄関ポーチ付、本瓦葺きで建築面積は6601.8平方mと大きな建物です。中庭を2つ設けた日の字型平面で、正面中央前方に車寄を張り出しています。和風を基調としていて、意匠の完成度が高く、昭和初期の日本近代建築の完成された形で高い価値があります。
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東京国立博物館

東京都台東区上野公園に東京国立博物館があります。
明治5年(1872)、湯島聖堂で文部省博物局による最初の博覧会が開催され、これを契機に博物館が創立されました。明治14年(1881)には上野公園内にジョサイア・コンドル設計の博物館が建設され、翌年、付属動物園(現上野動物園)とともにオープンしました。
明治22年(1889)に帝国博物館と改称し、総長に九鬼隆一、美術部長に岡倉天心が就任しました。明治33年(1900)には東京帝室博物館と改称され、明治42年(1909)には大正天皇のご成婚を記念して表慶館が開館しました。ネオ・バロックの様式で重要文化財に指定されています。
大正12年(1923)に起きた関東大震災で旧本館は大破し、翌年まで休館になり、その後も表慶館のみで再開されました。昭和12年(1937)、旧東京帝室博物館本館が再建されました。懸賞で募集し、一等になった渡辺仁案を原案として、宮内省内匠寮が設計したものです。
昭和22年(1947)には宮内省から文部省に移管され、国立博物館と改称し、昭和27年(1952)には現在の名称である東京国立博物館となりました。現在は本館、表慶館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館がメインになっています。本館北側には日本庭園もあります。
東京国立博物館には11万件以上収蔵品があり、国宝91件、重要文化財600件以上という日本を代表するものが数多く含まれています。 日本と東洋の美術・工芸品などを中心に展示しています。収蔵品の数は日本最大規模を誇っています。
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旧東京音楽学校奏楽堂

東京都台東区上野公園に旧東京音楽学校奏楽堂(きゅうとうきょうおんがくがっこうそうがくどう)があります。
旧東京音楽学校奏楽堂は上野公園の一角、東京藝術大学前にあります。明治23年(1890)に建てられた日本最古の木造の洋式音楽ホールで、昭和63年(1988)に国の重要文化財に指定されました。
東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の施設だった奏楽堂は、木造総二階建、玄関ポーチ付、桟瓦葺きで、建築面積は785.4平方mで、中央家と翼家からなっていました。奏楽堂とは、本館中央家2階にあるオーディトリウム(演奏会場)のことを指していました。
現在の奏楽堂は建物そのものの名称となっています。昭和47年(1972)、老朽化のため大学構内から愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されることになりましたが、日本建築学会、音楽家グループ、市民らの反対により撤回され、昭和58年(1983)に台東区に譲渡されました。
昭和59年(1984)に解体され、翼家の部分の一部を省略して芸術大学敷地内から昭和62年(1987)にこの地に移築されました。中にはパイプオルガンのある音楽ホールと資料室があり、今でも演奏会が開催されています。
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常憲院霊廟勅額門

東京都台東区上野桜木に寛永寺(かんえいじ) があります。
常憲院霊廟勅額門(じょうけんいんれいびょうちょくがくもん)は徳川5代将軍綱吉の霊廟の勅額門で、宝永6年(1709)に建立されています。切妻造り、銅瓦葺きの四脚門で、前後に軒唐破風を付けています。歴代将軍の霊廟の中でも、もっとも整ったものの一つです。この奥に徳川家定と天璋院も葬られています。
初代家康は日光東照宮、2代秀忠は台徳院霊廟(増上寺)、3代家光は大猷院霊廟(日光・輪王寺)、4代家綱は厳有院霊廟(寛永寺)、6代家宣は文昭院霊廟(増上寺)、7代家継は有章院霊廟(増上寺)にあります。将軍家霊廟は、8代吉宗以降は倹約のため大規模な霊廟は建築されませんでした。
そのため寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔が建立された程度でした。常憲院霊廟勅額門は水盤舎とともに、昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。また厳有院霊廟勅額門(げんゆういんれいびょうちょくがくもん)も同時期に国の重要文化財に指定されています。(延宝9年(1681)建立、切妻造り、銅瓦葺きの四脚門で、前後に軒唐破風付)
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旧岩崎家住宅

東京都台東区池之端に旧岩崎家住宅があります。
旧岩崎家住宅は旧岩崎邸庭園として都立庭園の中にあります。三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したものです。園内にある洋館・撞球室・和館大広間・袖塀など屋敷全体が国の重要文化財に指定されています。
旧岩崎邸の敷地は、現在の旧岩崎邸庭園よりもかなり広く湯島合同庁舎、湯島四郵便局や切通公園一帯を含んでいました。江戸時代には越後高田藩榊原家の中屋敷でした。明治時代初期、旧舞鶴藩主・牧野弼成の屋敷だったものを明治11年(1878)に岩崎弥太郎が買い取ったものです。
現存する洋館、大広間(かつての和館の一部)などは、岩崎財閥3代・岩崎久弥によって明治29年(1896)に建てられました。大正12年(1923)の関東大震災の際には、屋敷地が避難所として地元住民に開放されたそうです。
洋館は、鹿鳴館やニコライ堂などを代表作にもつ英国人のジョサイア・コンドル博士が設計を手がけました。日本で初めて設計事務所を開いた人で、門下生には東京駅を設計した辰野金吾などがいます。完成当初は1万5千坪の敷地に20棟以上の建物があったそうです。
木造2階建・地下室付きの建物で、17世紀に英国で流行したジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラムのモチーフ、米国・ペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージなどを採り入れています。岩崎家の集まりや大切なお客様を招いて行うパーティーなどに使われたそうです。
洋館と結合されるかたちで「和館」が建っています。岩崎家の人々の居住スペースとして使用されていました。明治時代に数多くの住宅を手がけた、大河喜十郎が施工を手がけたと伝えられています。完成当時は建坪550坪で洋館よりも大きな建物でしが、現在は一部しか残されていません。
昭和20年(1945)終戦の際、GHQにより接収され、昭和22年(1947)財産税として物納、国有財産化されました。昭和36年(1961)洋館・撞球室が国の重要文化財に指定され、和館大広間・袖塀が追加指定、平成11年(1999)屋敷全体と実測図が追加指定されました。平成13年(2001)東京都に移管され、都立旧岩崎邸庭園として公開されました。
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旧因州池田屋敷表門

東京都台東区上野公園の東京国立博物館構内に旧因州池田屋敷表門 (きゅういんしゅういけだやしきおもてもん)があります。
旧因州池田屋敷表門は大名小路(現在の丸の内3丁目)にあった因州(鳥取県)32万石池田藩の江戸屋敷表門です。明治24年(1891)に芝高輪台の東宮御所の正門として移建され、高松宮家に引き継がれました。昭和29年(1954)に現在の国立博物館正門の西に移されました。
創建の年代は明らかではありませんが、江戸末期の建築と推定されています。入母屋造り、総本瓦葺き、1重の長屋門で、左右に唐破風造りの番所を備えています。両出番所は10万石以上の大名にだけ許される格式のある構えで、大名屋敷門の堂々とした姿を見せています。
東京大学にある赤門に対してこちらは黒門とも呼ばれています。東京国立博物館の屋外展示のひとつとなっていて、昭和26年(1951)に国の重要文化財に指定されています。
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旧十輪院宝蔵

東京都台東区上野公園の東京国立博物館構内に旧十輪院宝蔵 (きゅうじゅうりんいんほうぞう)があります。
旧十輪院宝蔵は東京国立博物館、法隆寺宝物館前にあります。奈良・十輪院の宝蔵であったものです。間口1間、奥行1間、校倉(あぜくら)、宝形造り、本瓦葺きの小さな宝蔵ですが、昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。
旧十輪院宝蔵は奈良・元興寺の別院、十輪院から明治15年(1882)にここに移築されました。鎌倉時代の前期に造られた宝蔵で、一間四方の小さな校倉に、大般若経が納められていた経蔵でした。
十輪院の開基とされる朝野魚養の筆になる大般若経六百巻(天平時代)が納められていたそうです。大般若経は明治の廃仏毀釈のとき奈良・薬師寺の所有となり、その後、奈良国立博物館、藤田美術館などにも分蔵されました。「魚養経」といわれ、一部は国宝に指定されています。
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国立科学博物館上野本館

東京都台東区上野公園に国立科学博物館上野本館があります。
国立科学博物館上野本館(現日本館)は旧東京博物館上野新館だった建物で、平成20年(2008)に国の重要文化財に指定されました。国立科学博物館は上野恩賜公園の中にあり、自然史・理工学・科学技術などに関する資料の収集・展示や研究などを行っています。
前身は明治10年(1877)に設立された文部省の教育博物館でした。大正10年(1921)に東京博物館と改称し、大正12年(1923)の関東大震災で施設と資料のすべてを焼失してしまいました。現在の本館(現日本館)は昭和6年(1931)に上野新館として竣工されたものです。
その翌年には東京科学博物館と改称され、東京市の施設となりました。昭和20年(1945)には建物が軍に徴用され、終戦まで高射第1師団の司令部となっていました。昭和24年(1949)に国に移管され、現在の国立科学博物館となりました。
太陽系と宇宙、生命の誕生から人類への進化、動植物の多様な世界など、自然科学に関する様々な展示を行っています。新館ではテーマを映像や照明を駆使して展示しています。
1階は生命を誕生させた海がテーマ。2階は身近な科学。遊び道具のような実験道具で、楽しみながら科学に親しめます。3階の発見の森は雑木林のジオラマを散歩しながら自然の不思議を見つけだす体験型の展示です。地下1階は大型恐竜の迫力の骨格見本です。
国立科学博物館の日本館と呼ばれる本館は鉄筋コンクリート造り、一部鉄骨鉄筋コンクリート造り、地上3階地下1階建、正面中央塔屋及び屋上に赤道儀室があり、正面に車寄せがあります。建築面積は1949.46平方mの建物です。平成20年(2008)に国の重要文化財に指定されました。
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寛永寺弁天堂

東京都台東区上野桜木に寛永寺(かんえいじ) があります。
寛永寺弁天堂は不忍池の弁天島にあります。不忍池弁天堂とも呼ばれ、寛永寺の境外祠堂です。天海僧正が琵琶湖の竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し、寛永年間(1624-1644)に常陸下館城主・水谷伊勢守が中島を築き堂を建てて弁財天を祀ったものです。
弁天堂は昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造りの八角堂として再建されました。また弁天堂には鳥塚があります。平成16年(2004)4月10日、ここで鳥供養が営まれました。鳥インフルエンザ感染の影響で、京都府などで大量に処分された鶏の霊を慰めたのです。
また弁天堂には包丁塚もあります。
不忍池弁天堂は琵琶湖竹生島宝厳寺の大弁才天を勧請していますので、水の神様でもあります。境内には様々な水にまつわる動物・ものを奉った塚があります。
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旧寛永寺五重塔

東京都台東区上野桜木に寛永寺(かんえいじ) があります。
旧寛永寺五重塔は上野動物園の中に建っています。昭和33年(1958)に寛永寺が東京都に寄付したため旧寛永寺五重塔となっています。江戸時代前期の寛永8年(1631)に建立されましたが焼失し、現在の五重塔は下総・古河城主の土井利勝によって寛永16年(1639)に再建されました。
旧寛永寺五重塔は三間五重塔婆です。屋根は五重部分が銅瓦葺きで、他の下層は本瓦葺きとなっています。明治44年(1911)に国の重要文化財に指定されています。塔の初重に安置されていた釈迦如来、薬師如来、弥勒菩薩、阿弥陀如来の4仏は、東京国立博物館に寄託されています。
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清水観音堂

東京都台東区上野桜木に寛永寺(かんえいじ) があります。
清水観音堂は上野公園内の不忍池を臨む高台に建てられています。寛永8年(1631)に京都の清水寺を模し、摺鉢山の上に創建され、元禄7年(1694)に現在地へ移転しました。観音堂の舞台造りは浮世絵に競って描かれ、観音堂に通ずる坂は「清水坂」といわれています。
清水観音堂は間口5間、奥行4間、単層懸造り(かけづくり)、本瓦葺きで、寛永8年(1631)に建てられています。規模は小さいとはいえ、京都の清水寺の本堂と造りです。昭和21年(1946)に国の重要文化財に指定されています。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所でもあります。
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寛永寺根本中堂

東京都台東区上野桜木に寛永寺(かんえいじ) があります。
寛永寺の根本中堂は本堂になります。東京国立博物館の敷地に建てられましたが、慶応4年(1868)の上野戦争で焼失しました。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地(東京芸術大学音楽学部の裏手)に、明治12年(1879)、川越の喜多院の本地堂を移築したものです。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置しています。
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殉死者の墓

東京都台東区上野桜木に寛永寺(かんえいじ) があります。
上野公園の中の現竜院墓地内に殉死者の墓があります。慶安4年(1651)4月20日、徳川3代将軍家光が他界しました。後を追って老中堀田正盛、阿部重次らが殉死しました。4代将軍家綱の時代の寛文3年(1663)、幕府は武家諸法度を改正し殉死を禁止しています。
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寛永寺開山堂

東京都台東区上野桜木に寛永寺(かんえいじ) があります。
寛永寺の開山堂は開山した天海僧正(慈眼大師)と2代目慈恵大師を祀っています。天海僧正は天台宗本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営し、幕府の天台宗制覇を実現する意図があったようです。
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寛永寺旧本坊表門

東京都台東区上野桜木に寛永寺(かんえいじ) があります。
寛永寺の旧本坊表門は慶応4年(1868)の上野戦争の兵火を唯一免れた建物で、輪王殿の前に残されています。寛永寺の本坊は、現在の東京国立博物館の地に建立されていました。現在はその表門だけが往時の姿を留めています。門には官軍の攻撃による弾痕が数多く残っています。
寛永寺全体の表門というべき黒門は荒川区南千住の円通寺に移築され現存しています。寛永寺旧本坊表門も黒門とよばれますが全く別の門です。切妻造り、本瓦葺きの三間薬医門です。江戸時代前期の寛永年間(1624-1643)に建てられています。昭和21年(1946)に国の重要文化財に指定されています。
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寛永寺

東京都台東区上野桜木に寛永寺(かんえいじ) があります。
寛永寺は天台宗の別格大本山です。寛永2年(1625)に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、天海大僧正によって建立されました。秀忠の隠居後、寛永2年(1625)、3代将軍家光の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立されました。
寛永寺の伽藍は延暦寺の様式のように造営されました。寛永4年(1627)には法華堂、
常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631)には清水観音堂、五重塔などが建立されました。寺の中心となる根本中堂が落慶したのは元禄11年(1698)、5代将軍徳川綱吉の時でした。
後には第4代将軍・德川家綱の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。貫主は輪王寺宮と尊称され、水戸、尾張、紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもちました。
江戸時代、現在の上野公園一帯に寛永寺の堂塔伽藍が整然と配置されていました。現在の噴水池周辺に、本尊薬師如来を泰安する根本中堂があり、その後方に本坊がありました。しかし、幕末の慶応4年(1868)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となりました。
五重塔、清水堂、徳川家霊廟は残りましたが、根本中堂などほとんどの堂宇が焼失しました。明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873)には旧境内地が公園用地に指定され、寺は廃止状態に追い込まれました。
復興後、第二次世界大戦でも被害を受けましたが、上野公園内の各所に残されています。旧本坊表門、清水観音堂、五重塔、常憲院霊廟勅額門、厳有院霊廟勅額門などは国の重要文化財に指定されています。
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浅草神社

東京都台東区浅草に浅草神社(あさくさじんじゃ)があります。
浅草神社は浅草寺本堂と二天門の間にあります。浅草寺の創建に関わった土師真中命(はじのまつちのみこと)と檜前浜成命(ひのくまのはなまりのみこと)、檜前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)兄弟の3命が祀られているので、三社権現と称していました。
のちに東照権現(家康)も祀られましたが、明治元年(1866)に三社明神と改称、さらに、明治の神仏分離令により明治6年(1872)には現在の浅草神社と改称され浅草寺と切り離されました。
現存の社殿は徳川家光の寄進で慶安2年(1649)に建てられています。
本殿と拝殿の間に幣殿(石の間)を設けた「権現造り」です。拝殿は間口7七間、奥行3間、一重、入母屋造り、本瓦葺きで、3間の向拝があります。昭和21年(1941)に国の重要文化財に指定されています。本殿は銅板葺きの、三間社流造りです。幣殿は間口3間、奥行1間、一重、銅板葺きで、前面は入母屋造りで、背面は本殿に接続しています。昭和26年(1946)に幣殿・本殿が国の重要文化財に指定されています。
「三社祭」は浅草神社の例大祭で、神社神興三体の宮出し、宮入りと各町渡御、四十四カ町町神興の連合渡御などが行われます。江戸三大祭の一つで、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれる江戸っ子の心意気を示して、神と人が一体となって盛り上がります。
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東京スカイツリー

東京都墨田区押上に東京スカイツリーがあります。
東京スカイツリーは東武伊勢崎線・東京地下鉄半蔵門線・京成押上線・都営地下鉄浅草線の押上駅と東武伊勢崎線の業平橋駅の間に挟まれる、東武鉄道の本社隣接地で所有地でもある貨物駅跡地に「大林組」によって建設されました。
高さ634mで電波塔としては世界一、人工の建造物としてはドバイにあるブルジュ・ハリファの828mに次ぐ世界第2位の高さです。平成20年(2008)7月14日に着工し、平成23年(2011)の冬に竣工し、平成24年(2012)の5月22日にオープンしました。
土地が狭いため東京タワーの4本足ではなく、3本足で建てられています。間隔も東京タワーの88mに対し68mしかありませんが、普通より2倍も強い鉄骨を使い、重りの役目をして揺れを減らす「心柱」をタワーの中に建て揺れに強くしています。
スカイツリーの足の下には、大きな壁を組み合わせた「特殊な杭」が地下50mまで埋め込まれています。杭の先には「ナックル」と呼ばれる出っ張りがいくつもあり、これが地面に食い込んでいるのです。
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吉良邸跡

東京都墨田区両国に吉良邸跡(きらていあと)があります。
吉良邸跡は吉良上野介義央の上屋敷跡です。赤穂浪士が主君の浅野内匠頭の仇討ちを果たした場所で、赤穂浪士が吉良の首を洗ったという首洗いの井戸があります。
現在は「本所松坂町公園」になっています。昔の吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2、3丁目)のうち、約8400平方mの大屋敷でしたが、昭和初期、周辺は住宅化が進みました。旧吉良屋敷跡を保存するため、地元有志が土地を購入、周囲をすなまこべい長屋門石壁造りに復元保存し、東京市に寄贈し本所松坂町公園ができました。
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回向院

東京都墨田区両国に回向院(えこういん)があります。
回向院は赤穂浪士が討ち入り後、追っ手に備えようと入ろうとして拒否されたところです。また、このお寺では旧国技館ができるまでは公共社会事業の資金集めのための寄付相撲、いわゆる勧進相撲興行が行われていたところでもあります。
この回向院で大相撲が行われていたのです。境内には力塚と刻まれた碑や、相撲石碑が残されています。
回向院は明暦3年(1657)の大火の犠牲者を弔うために建てられた浄土宗のお寺です。
この大火の焼死者を集めて築いた万人塚が始まりで、海難溺死者、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために開かれました。その後の安政大地震、関東大震災、海難、水死、焼死、牢病死で亡くなった全ての無縁仏を祀っています。
力塚は昭和11年(1936)に落成されました。巨大な石に「力塚」と書かれた石碑で、揮毫は徳川家達です。相撲関係者の霊を祀っています。 著名埋葬者としては、猿若勘三郎(江戸歌舞伎)、加藤千蔭(大岡越前守配下の与力 賀茂真淵門下の国学者)、奥村市蔵(明治理髪の元祖)などがあります。
江戸時代、義賊と唱われた鼠小僧次郎吉の墓もあります。ギャンブルの御守りとして墓の欠片を持ち帰る者が後を絶たないそうです。
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