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真田幸村

真田幸村
長野県上田市真田町下原(しもはら)の真田氏記念公園に真田幸村のリーフ像があります。
 幸村は「真田源治郎信繁」が本名で幸村と書かれたものはないそうです。しかし幸村の方が好きなのでこの名にしておきます。昌幸死後の慶長19年(1614)豊臣秀頼の使者が九度山を訪れ家康打倒の協力を求めたのでした。
 3月18日、幸村は大助と共に14年住んだ九度山を後にして大阪城に入城しました。豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿の梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、家康の名を分断し、豊臣家の繁栄を願い徳川を呪っているとして難癖をつけたことから対立したものでした。
 同年11月大坂冬の陣が起こります。徳川軍は約20万の軍で大坂城を包囲しました。幸村は南側の最も重要な地点に出丸「真田丸」を築いてさんざんに徳川軍を翻弄します。その後、一旦は和睦が成立しました。口約束で、大阪城の外堀を埋めることも合意していましたが内堀まで埋められてしまったのです。
 翌年夏の陣が起こりました。堀がない大坂城は裸同然でした。そんな中、幸村は家康の本陣に猛烈な突撃を敢行し、「もはやこれまで」と自刃すら覚悟させた活躍をしたそうです。5月7日最後の決戦になり幸村も壮絶な最期を遂げたそうです。

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真田昌幸

真田昌幸
長野県上田市真田町下原(しもはら)の真田氏記念公園に真田昌幸のリーフ像があります。
 幸隆は天正2年(1574)死去し、長男の信綱が家督を継ぎました。天正3年(1575)の長篠・設楽ヶ原合戦で弟の昌輝共々討死にしてしまいます。三男の昌幸は信玄の小姓をしたあと甲斐の名門・武藤家に入りましたが戻って真田を継ぐことになりました。
 昌幸は天正8年(1580)上州沼田城を攻略し版図を拡げました。天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、織田・北条・上杉・徳川らの諸勢力の中で独立領主化しました。沼田領をめぐる対立で、天正13年(1585)に徳川が大軍を率いて上田城を攻撃しましたが撃退させました。
 北条氏との沼田領争いではとうとう天下人・豊臣秀吉をも動かして、北条氏を滅亡に追い込んでしまいました。慶長5年(1600)関ヶ原の役では、昌幸と次男・幸村(信繁)は西軍に味方し、長男の信之(信幸)は東軍について袂を分かちました。
 昌幸は徳川秀忠の率いる大軍を上田城で参戦させ関ヶ原に遅参させたのですが東軍は大敗してしまいました。昌幸・幸村は信之の助命嘆願で高野山蓮華定院で蟄居となりました。その後紀州九度山へ移り、慶長16年(1611)昌幸は九度山で亡くなりました。

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真田幸隆(幸綱)

真田幸隆(幸綱)
長野県上田市真田町下原(しもはら)の真田氏記念公園に真田幸隆(幸綱)のリーフ像があります。
 真田氏は海野氏を祖としていま幸隆以前はよくわかっていないようです。幸隆は出家後の名で幸綱と名乗っていました。 天文10年(1541)武田信虎、諏訪、村上連合軍は海野平に侵攻、幸隆らは上州吾妻の羽根尾城の羽尾幸全を頼って逃げたそうです。
 その後幸隆は敵であった武田信虎の子、信玄に仕官したのです。信玄の片腕となり、「信濃先方衆」「上州先方衆」として活躍します。天文20年(1551)幸隆は調略で戸石城を乗っ取り、小県周辺の旧領を回復したのです。こうして真田一族は旧領である真田郷をはじめ小県一円、上州吾妻をその勢力下に収めていきます。

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真田氏記念公園

真田氏記念公園
 長野県上田市真田町下原(しもはら)に真田氏記念公園があります。
 上田から群馬県境の鳥居峠に抜ける国道144号線の真田町の入口下原に真田三代の碑が建てられています。真田町が真田氏の発祥の地である証しを表現しています。
 公園といってもレリーフ像と真田三代の略記がある程度ですが「真田氏発祥の郷」の石碑は池波正太郎氏の筆によるものです。「真田太平記」によって真田氏の知名度が上がりました。
 三代のレリーフは、中央が真田幸隆、向かって右が真田昌幸、左が真田幸村です。岡田益雄氏によって創られたそうです。

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池波正太郎真田太平記館

池波正太郎真田太平記館
長野県上田市中央に池波正太郎真田太平記館(いけなみしょうたろうさなだたいへいきかん)があります。
 文豪・池波正太郎の記念館が平成10年(1998)にオープンしました。代表作「真田太平記」から名を取って池波正太郎真田太平記館という長い名前です。
 建物は2階建てで、2階には池波正太郎コーナーと真田太平記コーナーが常設展示されています。今なお多くのファンを魅了する池波正太郎と「真田太平記」の魅力が味わえます。
 1階は喫茶ル・パシタンとグッズや書籍の販売、交流サロンなどがあります。「草の者」の世界が映像でわかる忍忍洞や「上田攻め」などを切り絵で再現したシアターなどもあります。
 この蔵の中はギャラリーになっていて風間完の真田太平記挿絵原画が展示されています。
 直木賞作家・池波正太郎は大正12年(1923)東京の下町・浅草に生まれました。兜町の株式仲買店の店員を経て、東京都の下谷区役所に勤務しながら戯曲を書き始めました。
 25才で長谷川伸に師事、本格的に劇作の指導を受け新国劇などを中心に活躍しました。昭和35年(1960)、「錯乱」で第43回直木賞を受賞し、役所をやめ本格的な作家生活に入りました。
 昭和43年(1968)に「鬼平犯科帳」、昭和47年には「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」の連載が始まりました。そして昭和49年(1974)に「真田太平記」が週刊朝日に連載され9年間も続けられたのです。
 真田一族の歴史に深い関心を抱き、名将真田昌幸・信之・幸村の活躍をテーマにした戦国歴史浪漫「真田太平記」は、歯切れの良い文章や人情味溢れる作風も手伝って大衆から支持を得たのでした。
 序章は上田城に迫る徳川・北条連合軍。昌幸・幸村父子と神出鬼没の「草の者」との絆。完結も生き残った信之を中心に描かれました。家康死後、憎悪に燃えた秀忠が真田藩に襲いかかります。危機に陥った信之を守ったのが生き残った草の者のおかげでした。

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上田藩主居館表門

上田藩主居館表門
 長野県上田市大手に上田藩主居館跡(うえだはんしゅきょかんあと)があります。
 上田藩主居館の表門は寛政元年(1789)の火災で焼失した翌年に再建された薬医門です。前面に4本の太い親柱が並び、中央に大扉、左右に潜り戸が付いています。後ろ側は左右の控え柱を通し梁でつないでいます。
 普通の門では親柱が棟の真下に立っていますが、この表門では棟の真下より少し前に親柱が立ち、控え柱が後方にある造り方をしています。昭和44年()に上田市の文化財に指定されています。

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上田藩主居館跡

上田藩主居館跡
 長野県上田市大手に上田藩主居館跡(うえだはんしゅきょかんあと)があります。
 上田藩主居館跡は歴代上田藩主が住んでいた所です。門は藩主屋敷にふさわしい豪壮な造りの薬医門です。今はこの門は県立上田高等学校の正門になっています。春は桜が咲き誇り、晩秋には紅葉した葉が堀をうずめます。
 関ヶ原の戦いの後、上田城は破却されました。昌幸・幸村(信繁)の活躍で中山道で関ヶ原を目指した徳川秀忠軍は戦いに遅参させられてしまいました。このことで秀忠の怒りは大きく、城すべてを破却したようです。
 しかし同じ真田の一員でもあった真田信之(信幸)への信頼は厚く上田と沼田の地を安堵しました。城のない上田を治めるために建てたのがこの居館でした。城主の御殿は一般的には城の本丸に設けられます。しかし上田の場合は城から大分離れたこの地に置かれたのです。
 上田藩主の居館は藩政の中心施設である藩庁でもあり、実質的な上田城の本丸でもあったのです。元和8年(1622)、真田信之は松代に転封となり、故郷上田を後にしました。信之は松代藩を築き93才まで生き、90才まで藩政に携ったそうです。
 上田には小諸より仙石氏が入封し、その後、松平氏が入りました。上田城も再建されましたが、藩主の居館はそのまま移転されず明治維新まで続きました。現在は屋敷門と真田時代の堀だけが昔を偲ばせています。

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千曲川

千曲川
 千曲川は、長野県川上村、埼玉県秩父市、山梨県山梨市の3県の境にある甲武信(こぶし)岳にその源を発し、佐久、上田の2つの盆地を経て長野盆地で犀川(さいがわ)と合流します。県境で信濃川と名前が変わり新潟県に入り、日本海に至ります。
 全長367kmのうち、信濃川と呼ばれている部分が153kmで、千曲川と呼ばれている部分は214kmと、60kmほど千曲川の方が長くなっています。日本で一番長い川となっています。
 千曲川の由来は川が千の数ほど曲がっているのでつけられたといわれています。また狭窄部が連続し、両岸は崖状の地形を呈していることから、「チク(崖)・マ(袋状の湿地)の川」という説もあります。
 また水源に近い長野県の川上村の伝説によれば、大昔に高天原に住む神々の間で大きな戦いがあり、この時に流された血潮によってできた川だとされています。その血潮があたり一面隈なく流れた様子から「血隈川」となったというものです。
 島崎藤村は千曲川を愛し、大正元年(1912)に千曲川のスケッチという作品を刊行しています。千曲川沿岸の小諸の自然と人間生活とを観察した内容です。
 千曲川は太古より人々の暮らしとともにあり、生活を支えてきました。その恩恵は計り知れませんが、水量が豊かな川ゆえに洪水がもたらす被害も甚大なものでした。日本紀略などには仁和4年(888)の洪水が記され、寛保2年(1742)の史上最大の大洪水では2800人もの犠牲者を出しています。
 令和元年(2019)の台風19号による大雨では、堤防決壊で家屋流出、浸水、道路決壊陥没などで甚大な被害と死者も出しています。丸窓電車で有名になった上田ー別所線の上田電鉄の鉄橋も崩壊しました。

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倉沢家住宅客座敷

倉沢家住宅客座敷
 長野県上田市大字築地に倉沢家住宅(くらさわけじゅうたく)があります。
 倉沢家の客座敷は享保の時代(1716-1736)に建てられたと思われます。10畳2室と8畳のとりつぎで構成されています。
 主屋の左前方に接続し、L型の平面を持っています。茅葺きの、寄棟造り、平屋建てです。床の間や欄間などの意匠があり、代官などを客として迎えるのにふさわしい造りになっています。
 倉沢家の客座敷のように、江戸時代前期の民家の客座敷は、最上層の家のみが、別棟の座敷を建てるのが一般的だったようです。

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倉沢家住宅主屋

倉沢家住宅主屋
 長野県上田市大字築地に倉沢家住宅(くらさわけじゅうたく)があります。
 倉沢家の主屋は最初に建てられ、その後で客座敷などが増築されたようです。間口10間、奥行5間、寄棟造り、平屋建て、茅葺き(鉄板被せ)です。半分が土間になっていて、軒は普通の農家と比べてかなり低く、開口部が少なく閉鎖的です。

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倉沢家住宅表門

倉沢家住宅表門
 長野県上田市大字築地に倉沢家住宅(くらさわけじゅうたく)があります。
 倉沢家の表門は桟瓦葺き、切妻造り、1間薬医門です。代官などを客として迎えるのにふさわしい大庄屋としての格式を備えた堂々とした門です。

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倉沢家住宅

倉沢家住宅
 長野県上田市大字築地に倉沢家住宅(くらさわけじゅうたく)があります。
 倉沢家は築地にある旧家で、過去帳によると江戸時代初期頃にはこの地に住んでいたと思われます。倉沢家は享保9年(1724)に上田藩主から小泉組大庄屋に任命され、苗字帯刀を許されていたようです。
 倉沢家の屋敷内には主屋、客座敷、表門、文庫蔵、土蔵、倉庫、旧酒蔵が建てられています。主屋は東御市の春原家住宅(国重要文化財)と同じ頃の17世紀中期から後期に建てられたと思われます。平成6年(1994)に上田市の文化財に指定されています。

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安良居神社

安良居神社
 長野県上田市上丸子(かみまるこ)に安良居神社(あらいじんじゃ)があります。
 安良居神社は桜がきれいな丸子公園の一角にあり、古くから上丸子の氏神様として祀られてきました。安良居神社の大鳥居には八幡宮の額が掲げられています。昔は八幡神社と呼ばれ、木曽義仲が逗留中に源氏の氏神である八幡大菩薩を祀り創建したとも伝えられています。
 挙兵の際、出陣に先立ち愛宕神社(御嶽堂)で行った笠懸の矢を奉納し戦勝祈願をしたといわれています。鳥居の正面に建てられた拝殿は間口5間、奥行3間、平入りの切妻造りの建物で、正面に1間の軒唐破風の向拝を付けています。
 拝殿の後ろに、覆屋で囲まれた本殿が建てられています。諏訪の宮大工2代目、立川四郎富昌が手掛けました。脇障子に彫られた、手長足長の彫刻と、柱の龍と唐獅子、牡丹の彫刻が有名です。安良居神社本殿は昭和47年(1972)に上田市の有形文化財に指定されています。

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岡城跡

岡城跡
 長野県上田市岡に岡城跡があります。
 岡城は武田信玄の家臣、馬場美濃守信房により、天文年間(1532-1554)の末に築城されたと考えられています。内濠・外濠の外側に武田氏独特の三日月濠がある大規模な初期の平城です。
 岡城は天文22年(1553)、村上義清の葛尾城(坂城町)を落としてから、永禄3年(1560)、松代に海津城を築くまでの6年間、武田勢の川中島への進出の貴重な前線基地だったようです。
 城郭の規模は南北360m、東西460m、総面積は約7万5千平方mです。中心に本丸があり、東、西、北の3方を囲むように2の丸が配され、3カ所の出入り口は全て三日月濠で、南側は崖になっています。昭和47年(1972)に上田市の記念物(史跡)に指定されています。

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宗安寺

宗安寺
 長野県上田市岡に宗安寺(そうあんじ)があります。
 長廣山宗安寺は浄土宗のお寺で、京都の知恩院の末寺です。寛仁年間(1017-1021)、恵心僧都が自ら彫り込んだ阿弥陀如来を安置したのが始まりと伝えられています。寺は御善帰にあり、帰命山正善寺と称しました。
 天文元年(1532)、領主であった足利義澄の臣下・藤木刑部長廣の菩提を弔う為、再興され長廣山遍照寺となりました。天文16年(1550)の上田原合戦の兵火により焼失、慶長10年(1606)、真田家家臣の日置五右衛門尉尹俊が堂宇を再建し、宗安寺と改めました。
 元禄10年(1698)、堂宇は大破し、伯誉上人の時、宝暦3年(1754)にやっと再建することができました。上田藩主松平伊賀守から賜った輪島膳椀、緞子の夜具、永丹画の屏風などが寺宝として残されています。

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龍宮神社

龍宮神社
 長野県上田市殿城に龍宮神社瀧水寺(りゅうすいじ)があります。
 龍宮神社は神仏習合の頃、向かって右隣りにある瀧水寺(りゅうすいじ)を別当寺院にしていました。龍宮神社の背後は崖になっており、清水が流れています。鬱蒼とした古樹の中に本殿や矢澤一族と関係した矢澤社などいくつかの社殿や祠が建てられています。

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瀧水寺イトザクラ

瀧水寺イトザクラ

 長野県上田市殿城に瀧水寺(りゅうすいじ)があります。
 瀧水寺の門前には「イトザクラ」という樹種のシダレザクラがあります。樹齢300年といわれ、幹周は253cmあります。昭和50年(1975)に上田市の保存樹木に指定されています。

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瀧水寺観音堂

瀧水寺観音堂
 長野県上田市殿城に瀧水寺(りゅうすいじ)があります。
 瀧水寺の観音堂は天保13年(1842)に建てられています。桟瓦葺きの入母屋造り、妻入で、崖に建つ懸造りです。大工棟梁は横尾村の北沢清左衛門で、17歳という若さでしたが繊細な彫刻が巧みに彫られています。恵心僧都が自ら彫り込んだと伝えられる十一面観世音像を安置しています。

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瀧水寺本堂

瀧水寺本堂
 長野県上田市殿城に瀧水寺(りゅうすいじ)があります。
 瀧水寺の本堂は沼田城城代でもあった真田昌幸の叔父・矢澤綱頼と夫人との発願により、天正15年(1587)に再建された建物です。間口6間、銅板葺きの寄棟造りで、正面に1間の向拝が付けられています。本尊である大日如来尊を祀っています。

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瀧水寺

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 長野県上田市殿城に瀧水寺(りゅうすいじ)があります。
 大慧山瀧水寺は真言宗豊山派のお寺です。「瀧」は「りゅう」とはあまり読みませんが住職さんに聞いたところ昔からの読み方だそうです。正応3年(1290)頃、慧算が龍宮明神を勧請したのが始まりだといわれています。
 隣に鎮座する龍宮神社の別当になり、「瀧の聖天さま」と、地元の人々から親しみをこめて呼ばれています。崖の上にそびえる観音堂は迫力があり、門前には、樹齢300年とされるイトザクラがあります。

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浄念寺

浄念寺
 長野県上田市中央に浄念寺(じょうねんじ)があります。
 七重山「浄念寺」は浄土宗のお寺です。室町時代の後期、永録2年(1559)に上田市の房山に源法寺として創建されたそうです。元禄9年(1696)に現在の場所に移転し、浄念寺と改称したそうです。
 参道の入り口には小さな石橋があります。この橋は縁切り橋と呼ばれているそうです。奥の大きな地蔵尊は悪縁を切ることができることから「縁切り地蔵」と呼ばれています。
 縁切り地蔵は浮気断ちにも効力があるそうです。その手の信仰で有名な和歌山の淡島神社とも関係があるようです。
 お堂は本堂と観音堂が一緒になった珍しいものです。間口も同じくらいの広さがあります。
 文政11年(1824)あたりから、このお寺で落語や講談、相撲などが催され、町の人々が大勢集まったそうです。

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東昌寺カシの樹

東昌寺カシの樹
 長野県上田市浦野に東昌寺(とうしょうじ)があります。
 山門の横には東昌寺のシンボルともいえるカシの樹があります。上田市の保存樹木に指定されています。

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東昌寺本堂

東昌寺本堂
 長野県上田市浦野に東昌寺(とうしょうじ)があります。
 東昌寺の本堂は大きくて立派な建物です。本堂左の間には二十五体の観音像、六体とも同じ千手観音が安置されています。

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東昌寺鐘楼

東昌寺鐘楼
 長野県上田市浦野に東昌寺(とうしょうじ)があります。
 東昌寺の鐘楼は上田市の有形文化財に指定されています。天保12年(1841)有名な諏訪の立川流の大工、宮坂常蔵によって建てられたものです。
 宮坂常蔵は、立川流二代目冨昌の娘婿で、大工としては立川昌敬の名を使ったそうです。豊川稲荷など手掛け、尾張近辺に名作を数多く残しているそうです。県内では、この鐘楼が代表的な建築物です。
 入母屋造り、桟瓦葺(さんがわらぶき)、袴腰(はかまごし)という形体で、県内でも数の少ない貴重な鐘楼です。石垣の下からの鐘楼は鳥が羽を広げたような華麗な美しい建物です。
 鐘楼の袴腰の上の部分や、上層の貫(ぬき)の上に亀や象、獅子、竜、貘などが美しく彫られています。二階の天井には、墨で大きな竜が描かれています。鐘はアララギ系の歌人でもある香取秀真(ほずま)氏が昭和28年(1953)に作ったものです。

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東昌寺

東昌寺
 長野県上田市浦野に東昌寺(とうしょうじ)があります。
 青木村にある国宝大法寺三重の塔をさらに少し登ると、山の中腹に東昌寺があります。上田市と青木村の境になっています。車で行くと不安になるような狭い急な道です。この山深い中にある立派なお寺は万年山東昌寺です。
 東昌寺は有力豪族でこの地方の地名ともなっている浦野氏の菩提寺です。東昌寺の創建は建長2年(1250)と伝えられています。天文12年(1551)に福井の心月寺の第七世、才応総芸を迎えています。この時臨剤宗だったのを曹洞宗にしたそうです。

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龍洞院

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 長野県上田市蒼久保(あおくぼ)に龍洞院(りゅうどういん)があります。
 龍洞院は活文禅師遺跡2号龍洞院敷地、遺墨遺品文書として上田市の指定記念物に昭和44年(1969)に指定されています。
 「門無雅客到  坐豈乏清風」
 「門に雅客の至るなし 坐して豈(あに)清風に乏しからんや」という漢詩が刻まれている石碑があります。風流な客人も訪ねてこないが、こうして一人で座っていると清らかな風が満ちてくる、意です。
 JR信濃国分寺駅に近い国道18号線から下青木(しもあおき)の細い道を1km入ったところに龍洞院があります。永正元年(1504)、村上義清の祖父であった戸石(砥石)城主の村上石京大夫が、上田市の神畑(かばたけ)の鳳林寺を改名して一山正心を開祖として開創しました。
 現在地の蒼久保には天正5年(1577)に移転したそうです。最も古い過去帳に天正五年という文字があるそうです。この寺は活文禅師が45才の時、住職として迎えられたことで有名です。
 活文禅師は松代藩士、森条七の次男として生まれ、10才の時、長和町(旧小県郡和田村)の信定寺に入り得度したそうです。信定寺は天文22年(1553)に武田信玄に攻められた城主大井信定が討ち死にし、その菩提を弔うため建立された寺です。
 信定寺は徳川時代に入り、例幣使日光参詣のさい和田宿に泊まり京都二条城祈願寺となり諸大名が参詣するようになったそうです。
 活文禅師は24才の時から7年間、江戸、長崎へ遊学し書や清の言葉などを習得したそうです。江戸に出た後、文化4年(1805)信定寺に戻り、14代の住職になり10年間務めました。
 その後、上田の龍洞院の住職に迎えられました。文政7年(1824)、周囲との折り合いがあわず岩門の大日堂に隠居し、文政12年(1829)常田にある毘沙門堂に移り寺子屋などを続け、弘化2年(1845)71才で亡くなったそうです。
 近代国家の礎を担った、佐久間象山や赤松小三郎、小布施の豪商・高井鴻山、郷土の彫刻家・竹内八十吉ら多くの著名人を育てたことでも有名です。

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宗吽寺石幢

宗吽寺石幢
 長野県上田市中央に宗吽寺(そううんじ)があります。
 本堂前にある石幢(石造物)は六地蔵塔で石灯籠として使われていたものだそうです。石幢は六角形の石灯籠型で6面に6地蔵を浮き彫りにするタイプか、6面に窓を開けて内部に6地蔵を置くタイプが普通だそうです。宗吽寺石幢は切妻の家型で正面と左右の3面に2体の地蔵尊が彫り込まれている珍しいものです。
 この石幢には「正平4年」(1349)と刻まれています。南北朝時代の南朝の年号だそうです。当時、この地方が北朝方に味方する勢力が多い中、このあたりは南朝方についていたことがわかります。石幢は昭和57年(1982)に上田市指定有形文化財に指定されています。

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宗吽寺

宗吽寺
 長野県上田市中央に宗吽寺(そううんじ)があります。
 海堂山「宗吽寺」は真言宗で紀伊高野山の末寺です。もともとは上田城の堀近くにあったものを上田城築城の時にこの地に移したといわれています。開山は什慶といわれ、上田城付近にありましたが、上田城築城の際、現在地に移され慶英法印によって中興開山しています。
 宗吽寺は上田藩主の仙石氏と松平氏の祈願所として庇護され、松平氏の参勤交代の折りには、江戸への出立の吉日をこの寺が選んだと「海野町本陣日記」に記されています。
 境内にある念珠は珠が108個あり煩悩の数と同じになっているそうです。母玉を一廻りさせることで煩悩を払うといわれています。

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竹内善吾武信の墓

竹内善吾武信の墓
 長野県上田市中央北に呈蓮寺(ていれんじ)があります。
 呈蓮寺には上田市の史跡に指定されている竹内善吾武信の墓があります。江戸時代末期の和算学の大家です。

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呈蓮寺本堂

呈蓮寺本堂
 長野県上田市中央北に呈蓮寺(ていれんじ)があります。
 呈蓮寺の本堂は寛政8年(1796)に再建された建物です。唐破風(からはふ)の下に大きな唐獅子が彫刻されています。

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